見出し画像

「実家が太い」問題について

まず「実家が太い」とは何か

「実家が太い」という言い方がある。「育った実家が裕福」という意味だが、Twitterで使われ始めたのは2012年らしい。それ以前にも水商売で支払いの良い客を「太客」と呼んだり、金払いの良い人を「太っ腹」と言ったりした。太い=裕福、というニュアンスは確かに昔からあった。何より、初めて聞いてもニュアンスが伝わる。しっくりくるというやつだ。おそらく今後も普通に使われ、定着していくのだろう。

奈良美智氏の炎上

最近、アーティストの奈良美智氏がTwitterで炎上した事案があった。炎上というのがどの程度を指すのかの議論はあるだろうが、そのように言われていたので暫定的に炎上と呼ぶ。当該ツイートはこれのようだ。

読んでみるとなんということはない、自らの矜持を示したツイートである。炎上するような内容には見えない。だが実際に炎上している。「そうは言うけどお前は恵まれているんだよ」といった怨嗟が渦を巻いたわけである。底辺から這い上がったみたいな書き方をしているが、もっと酷い環境ゆえにどうにもできなかった人が山ほどいるんだよ、と。

実家ガチャによる不公平な生

もっと過酷な状況の人がいる。それは確かだろう。お前なんてまだ恵まれている。それもそうだろう。裕福さというのは「ガチャ」という言葉で表されるように基本的に不公平で残酷なものであり、運の要素がまず大きい。生まれ育った家が貧しいことで、またはその環境が文化資本に乏しいことで、子どもは得られてしかるべきさまざまな機会を得ることができず、人生の序盤でつまづいてしまう。

自分自身に起こったこと

つまづきで言ったらこの私もそうである。東北の豪雪地帯の製材所の長男として生を受け、小学生くらいまでは田舎の旧家の跡継ぎということでそれなりにチヤホヤされて育った。運動は比較的苦手だったが、成績も良く、いわゆる「いい子」だった。順風満帆に見えた。しかしその後、実家はとある理由で大きな借金を背負い、もともと仲の良くなかった家族は物を投げ合うなどの激しい喧嘩をするようになり、生命の危険すら感じた母親が家を飛び出すのに連れ添う形で私は家を出た。いったん母の実家に身を寄せたあとは、小さな古いアパート暮らしとなり、そこから学校に通い始めた。たとえ小さい頃にいくらか羽振りが良かったとしても私はとても裕福な育ちだったとは言えない。そんな環境の変転がもたらした心理的デメリットは書き連ねるとキリがないので書かない。だが、自分の気持ちの中で何かが折れてしまい、人生がひどく生きづらいものになってしまったのは確かだった。

身近にいた実家の太い人

話が逸れたので戻す。身近にも「実家のいかにも太い人」というのはいた。父親が著名な芸術家で、広い綺麗な庭と豪邸に住んでいた従兄弟。一度だけ家に遊びに行ったが今でもうっすら覚えている。『パラサイト』という映画を観た人はあの豪邸の雰囲気を想像してもらうといいだろう。あそこまで広々とはしていないが、庭の広さやガラス張りのリビングなど、雰囲気としては似ていた。親戚が集まって話をするときに親たちがその家のことを話していたのを覚えている。いわゆる成功者ということでその家は妬み嫉みの対象になっていた。田舎の閉鎖性?いや、関係ない。人間というのは概してそういうものだ。そして自分の親たちは、妬まれる側ではなく妬む側の人間だった。

妬み嫉みは品位を下げる

そんな「太い実家を持たなかった」私が何を言いたいか。それは、経済的格差は多少あろうが、結局は大差がないということだ。いや、もちろん差は存在する。経済力の潤沢な家系であればしなくていい苦労をすることもなかったはずだ。それは確かに事実としてある。なのだが、世の中には本当にいろいろな環境で生きている人が存在しており、それもまた事実だ。その事実の中にあって、自分よりも恵まれているとか、あんたはまだマシだよだとか、そのように自分の品位を下げることになる声を発することに意味はないのである。それに、結局は大差がないと書いたが日本人の経済格差は言うほど極端ではない。スコープの狭いところで比較するからそう見える。上を見て引き摺り下ろすことを考えるのではなく、日々を生きていられることに感謝してはどうか…と言って終わればいいのだが、そこで終わらせてしまうと嘘になってしまう。

人への無理解が生む悲しみの連鎖

悩みというのは絶対値ではない。あくまで自分を基準とした身の回りの関係性との相対で発生する。だから「その悩みなんて〇〇に比べれば小さいよ」などというのは絶対に違う。苦しみというのは誰しもがそれなりに持っていて、比較することは困難なものだ。だからこそ「お前はまだマシ」「お前の苦しみなど大したことはない」などとは原理的に言えないはずだ。なぜなら「お前」の心の中の事情など周りからは絶対に見えないものだからだ。我々はいつもそうで、心無い言葉を投げかけてしまう裏には身勝手な偏見があり無理解がある。その人のことを詳しく知らないから勝手な思いこみをぶつけることができるのだ。そして無理解という意味ではお互いがそうなのである。偏見によって誰かに投げかけられた言葉を見るたびに私が思うのは、人は誰も自分をわかってくれないのだという、言葉を発する側の人間が自ら天に唾するような、無理解についての悲しみの証左がそこにあるということである。

やぶさかではありません!