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明解「日本だんじり文化論」④

令和3年7月17日(土)のYouTubeライブ+オフライン企画「明解・日本だんじり文化論」(https://note.com/shinobue/n/ne04a8f39ca17)に先だって、当日の簡単な予習も兼ねて、『日本だんじり文化論』(創元社)の読み解きを行なって参りたいと思います。何回かに分けて、章ごと、あるいは、項目ごとに、伝えたいことを記しておきます。〔 〕は本書のページです。

第三章 地車の誕生

地車の基本仕様
第二章で、大坂の夏祭での地車の隆盛を確認しました。第三章では、大坂から各地に伝播した多様な地車を紹介します。そのための「物差し」として、大坂の最初期の「屋形式地車」と、そこから社寺建築の工法を採り入れた「組物式地車」の、有形・無形の要素、「地車の基本仕様」を各論的に確認いたします。

地車は、おおよそ「棟数」「屋根の形式」「部屋割(舞台・楽屋・囃子座)」「組物」「装飾(幕・彫刻・金具)」「大きさ」「車輪(コマ)」「舵取棒」「筒守(つつまもり)」「提灯」といった有形の要素と、「曳行方法」「囃子」「芸能」といった無形の要素で成り立っています〔136P〕。

特に「囃子」からのアプローチは、史料の記述や地車の形態の分析を補強するとともに、新たな発見もありました〔154P〕。

地車の形態変化のメカニズム
地車の基本仕様を確認した上で、大坂から摂河泉、瀬戸内に広く伝わり、それぞれの地域で多様に展開した地車を紹介します。これまで「○○型」といった分類や、「上地車」と「下地車(岸和田型)」のような岸和田の地車を基準とした分類がなされてきましたが、「折衷型という型」もあるようで、その扱いが難いです。今後も「折衷型」や「新型」の地車が生まれることは確実ですので、本書では、「今ある地車をどのように分類するのか」を考えるのではなく、「どのようにして新しい形態の地車が生まれるのか」という原因と過程に注目して、それぞれの地車の「志向性」を捉えることに重点を置きます。

「芸能」「曳行」「造形」の、どの要素を「神賑(かみにぎわい)化」したのかによって、「芸能志向系地車」「曳行志向系地車」「造形志向系地車」といった領域に地車が分化していきます。本書では、祭具・芸能の有形無形の要素を「改良したい」と思う人々の意識が「神賑志向」であり、積極的な祭具・芸能の発展的展開を「神賑化」と呼んでいます。

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神賑志向のトレードオフ
ただし、地車を神賑化するためのエネルギー(資金・時間・精神など)には限りがあります。そのため「芸能」「曳行」「造形」のすべての神賑志向を同時に実現させることはできません。ある領域を神賑化させようとする時、他の領域に対する神賑志向が抑制されます。このようなトレードオフ(二律背反)の関係が、地車が多様に展開する要因の一つとなっています〔169P〕。

船型地車
一般に「船ダンジリ」と呼ばれる曳車があります。この名称は時に便利ですが、唐破風の屋根を持つ船型祭具を、その屋根の特徴から地車を連想して、すべてダンジリと呼んでしまうと、本書で進めてきた「あえて地車は船体を付けなかった」という議論が本末転倒となってしまいます。本書では「地車という祭具が確立されて後に船体を付ける」という原点回帰的な造形志向でつくられた船型祭具のみを「船型地車」(船地車)と呼ぶことにしています(地元での呼称を否定するものではありません)〔198P〕

地車の形態に類似する祭具
地車を見慣れていると、唐破風の屋根を備えた祭具は、すべて地車に見えてしまいますが、太鼓台に唐破風の屋根を備えるものも少なくなく、注意が必要です。特に、その祭具がダンジリと呼ばれている場合は、地車との区別が付きにくくなります。地車と太鼓台は、その出自は異なりますが、大坂の夏祭で誕生し育まれ、双方の文化圏はおおむね重なります。

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この、「だんじり(太鼓台・地車)文化圏」がユネスコ無形文化遺産に登録されている「山・鉾・屋台行事」の空白地帯に合致することは興味深い事実です〔162P〕。

〈補〉再考・岸和田祭の歴史
昭和四十年代後半から現在に至るまで、誤った岸和田祭の歴史が広まり、上書きされ続けています。岸和田祭に地車を採り入れた先人たちと今の我々の歴史観が、まったく異なるものであるとすれば、これほど不幸なことはありません。未来の岸和田の子供たちのためにも、諸々の事実と、間違った巷説が広まった経緯を、第三章の中で記しています〔189P〕。

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