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悲しいメトロノーム 第2話

 ヘビースモーカーの家に着いた。港区の2LDKのタワマン。駅からは徒歩7分なので、相当な好立地と言えるだろう。玄関にはシューズインクローゼットまで付いている。
「とりま、話そう?」
 大きな窓のあるリビングに案内される。窓からはやはり東京の夜景と、黒々しい海が見えた。既に時刻は午前二時を回っている。
 ヘビースモーカーは高そうな黒の鞄を床に置くと、キッチンに向かった。
「紅茶でいい? 今お風呂沸かしてるよ」
「お構いなく……あ、お手伝いします」
 慌ててキッチンに来た私を見て、ヘビースモーカーは首を横に振った。
「別に、遠慮しなくていいんだよ。今日からここが君の家なんだから」
 そうは言っても……と私が漏らすと、彼女はおもむろにスーツのジャケットを脱いだ。
 私は思わず息を飲む。
「これ、あそこのハンガーにかけてきてくれる?」
 白インナーはタイトスカートにインされていて、その曲線美が強調される。豊満な乳房と、メリハリのついたくびれ。美しい。
 本当になぜ美術館に飾られない? 
「……どうした?」
「あっ、いや! なんでもないです! かけてきます!」
 つい芸術作品に見とれてしまっていた。顔が赤いのが、鏡を見なくてもわかる。
 首を傾げながらも紅茶を淹れるヘビースモーカー。私たちはカップを持ち、リビングに向かう。
 チャコールグレーのソファが机を挟むようにして置いてあったので、彼女と向き合って座ることにした。
「改めて、今日からよろしく。あ、月島紫苑つきしましおんっていいます」
 そう言って彼女は名刺を手渡してきた。白基調のシンプルなカードに印刷されてる、「月島紫苑 Shion Tsukishima」。右下には有名な外資系企業の名前。
 やっとヘビースモーカーの正式名称が判明した。意外と綺麗な名前をしていた。てっきりもう少しヤンキーチックな……百目鬼愛羅どうめきあいら的な名前をしているのかと。でも一応大企業に勤めているらしいし、見た目こそちょっと派手だけど、彼女はエリートの類に入るのだろう。
 私は名刺をテーブルの上に置き、深呼吸した。
「こ、こちらこそ……改めて、速水有栖はやみありすといいます。月島さん、これからお世話になります」
 月島さんはやけに神妙な顔で私を覗き込む。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。顔を強張らせていると、彼女はふふっと笑みを漏らす。
「月島さん、だなんて固いなあ。紫苑でいいのに。てか君、やっぱりいい名前してるよね。有栖ちゃん」
「じゃあ、紫苑さん……。というか、私はこの有栖って名前あんまり好きじゃないんですけど」
「なんでよ」
「イタイって思われてそうじゃないですか。私はそんなに見た目のポテンシャル高いわけでもないのに」
 有栖といえば、海外の名前であるAliceをイメージする人は多いだろう。だが私は決してハーフ顔などではない。色白ではあるかもしれないが、一重瞼だし、団子鼻だし、唇はぽてっとしている。おまけに、丸い体系。丸すぎる体系。髪質なんて最悪だし、前髪はいつだって事故っている。
 大して目の前の芸術作品、紫苑さんはどうだ? 
 綺麗な形の瞳の下にある泣きぼくろはなんとも言えない儚さを放っている。鼻は北欧人のように高い。その金髪は何回もブリーチされているだろうに金糸のようになめらかだ。何より、そのボンキュッボンはどこ仕込みだ? 見た目からして20代後半くらいだろうが、その肌は10代のものと言われても驚かない。
 「ありす」という音の名前はきっと、彼女の方が似合う。でも、私には彼女が「しおん」でなければならない絶対的な理由があるようにも思える。
「10代なんてみんな可愛いじゃん……」
 紫苑さんはため息をついた。とても残念そうに。
「ど、どうしたんですか」
「35にもなるとね、君みたいな若い子がほんまに羨ましくなるんよ……」
「さ、さんじゅうごぉ?!」
 20代後半だという私の予想は見事に外れた。なんなら大幅に外れた。あの陶器のような肌をした紫苑さんが、まさか35だっただなんて。
「……そんなに老けて見えた?」
「いや、もうちょっと下かと思ってたので……まさかアラフォーだとは……」
「あー! 私の前でアラフォーという単語はダメ!!」
 そう言って手で耳を塞ぐ紫苑さんはどこか可愛らしかった。指の隙間からのぞくピアス。軟骨に開けるのは痛くないのだろうか……。いや、絶対痛い。
 紅茶を啜る紫苑さん。伏せられた目。青いマスカラがこれまた綺麗である。マスカラなんて塗ったことない。ビューラーは瞼まで挟みそうで怖いし、そもそも瞼が重すぎて上手く睫毛が上がる気がしない。
「でさ、」
 紅茶のカップがガラス製のテーブルの上に置かれる。コトン、と寂し気な音を立てる。カップも紫苑さんに口づけを貰いたいのだろうか。そう考えると自分のカップが可哀想に思えてきた。
「はい」
「今後のことについて話そうと……」
 そこまで紫苑さんが言ったところで、遮るかのように有名なクラシックのテーマと「お風呂が沸きました」の声が流れる。やれやれ、と彼女は言い、立ち上がった。
「お風呂入ろっか。案内するね」
 紫苑さんに続いて廊下に出る。
「この家、トイレ2つあるし、洗面台も2つ並んでるんだよね。本当に謎いよね。君が来るまで一人暮らしだったのに」
 紫苑さんが笑う。でも彼女は大企業の人間だし、こんな家に住めてもおかしくはないのではと思う。そもそも一人暮らしなのに2LDK という前提がまず謎に包まれているけれど。
「掃除大変じゃないですか?」
「ううん。家事代行って便利だよね」
 やはり紫苑さんは相当なお金持ちなのだろう。港区のタワマンなんて絶対高いに決まっているのに、家事代行まで頼めるだなんて。
「お金持ちなんですね……」
「本当のお金持ちはタワマンなんて住まないよ。私はいわゆる成金だし」
 紫苑さんが肩をすくめる。
 とはいっても、どんなお金持ちだって最初は成金じゃないかと思う。1世代で富を築き上げることの何がダメで何が恥なのだろうか。
「……パジャマここにあるから。あとこれは君の家から届いた服ね。他のものは後々。脱いだものはカゴに入れておいてくれればいいから」
 そう言って彼女はまたリビングに戻ろうとする。
 急に寂しくなった私は、次の瞬間自分でも理解が追いつかないような発言をしてしまった。
「行っちゃうんですか」
「一緒に入る?」
「入りません!!」
 少々食い気味で反論する。自分の失態に赤面する。
 そんな私を見た紫苑さんは暖かい目で、ではごゆっくり、と言って去ってしまった。手渡された紙袋の中から下着を取りだし、紫苑さんに渡されたパジャマを手に取る。
「ネグリジェ……」
 絶対私に似合わない、白くて脆そうなレースが用いられたネグリジェだった。でも仕方ない。ありがたく使おうと思い、それを床に置き、服を脱ぐ。

 浴室もこれまた広かった。
 浴室から見える夜景。今宵は夜景で飽和しているような気がする。煌びやかなビル街は眠りにつき、今はマンションの暖かい家庭の温もりが存在していた。遠くの工業地帯は燃えている。水平線は静かに揺蕩う。なんとも切ない夜だ。
 シャンプーは半プッシュくらいで我慢し、紫苑さんが待ってるだろうと早急に外に出た。さすがに紫苑さんの高そうなスキンケア用品を使うのは躊躇われたので、肌のツッパリを感じながらも、リビングに戻る。
 紫苑さんはパソコンを開いて仕事をしていた。私を見るなり、おかえりと優しく微笑むが、次の瞬間、彼女も洗面所にすっ飛んでいった。
 不思議に思いながらもソファに腰かける。
 すぐに戻ってきた彼女が持っていたのは、私がさっき使うのをためらった高そうなスキンケア用品だった。
「使っていいのに……」
 紫苑さんはそう言いながら、私の隣に腰掛ける。そしてコットンに化粧水を染み込ませ、私の頭に手を回した。まさか……。
 私の肌に化粧水が染み込んでいく。彼女の手によって。明るい場所で見た彼女の顔からは少し幼さすら感じられた。
 なんでこの人、こんなに綺麗なんだろう。
 彼女は続いて乳液を手に取る。すると彼女は私の頬に触れた。
「……!」
 首を傾げながら私の肌に乳液を塗っていてく紫苑さん。きっとつけ爪で私の肌を傷つけないように、指先を少し浮かせてくれているのだろう。だが、私の心は既に、甘やかな傷を刻まれてしまった。芸術作品が私の顔に潤いをもたらしていく。その指は、きっと何も気にしていないのだろう。だが私はその罪深さに酔わされていた。
「……これでよしっと」
 紫苑さんはティッシュで乳液のついた指をふき取り、お風呂に向かってしまった。
 私はしばらく呆然としていた。私の心は彼女によって犯されてしまった。彼女は容赦なく私の心に入り込み、かき乱した。その事実がとんでもなく恥ずかしくて、私はソファの上にあったクッションに顔をうずめる。
 彼女に触れられた感触が忘れられず、思わず頬に触れる。そこはほんのりと熱くて、また恥ずかしくなった。





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