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クラシックの歴史[中世4 中世の音楽美学]

前回のおさらい

前回、ペロタンらノートルダム楽派について取り上げました。

ペロタン

いわゆるクラシック音楽というものから比べるとかなり異質な存在に感じられます。

バッハを聴いてみましょう。

j.s.bach-ロ短調ミサ曲

現在の音楽システムの基礎を築いたといわれるバッハと比べてみても結構違います。ここに至るまでざっくり500年ほどの時間の開きがあります。

なぜこんなに違うのか?色々理由があるのですが今回は当時の人たちが有していたであろう音楽美学について触れていきましょう。

鳴ってる音楽なんてどうでもいい!?

まず、我々は「ミュージック」のことを「音楽」と訳していますが、中世の人たちにとっては決して「音」を「楽しんでる」わけではありませんでした。

では一体何なの?ということになりますが、当時広く読まれていた理論書にボエティウス(480?〜524?)の[音楽綱要]というものがあります。この書には音楽を3つの種類に分けています。

<ムジカ·ムンダーナ>(宇宙の音楽)
いきなり宇宙が出てきましたが(笑)どういうことかというと、これは「四季の変化や天体の運行などを司る秩序のこと」を指しています。つまり、当時の人々にとっての「本来の」音楽とは「世界を調律している秩序のこと」だったわけですね。

そして、それと同じことが人間の心身にもあると考えられています。

<ムジカ·フマーナ>(人間の音楽)
人間の心や体にも音楽による秩序があるとされており、これが狂ったりすると病気になったり性格が曲がったりすると言われております。

「今日ちょっとお腹の具合が悪くて。。。」とか言ったら「あっ、ムジカ·フマーナが狂ってるのね」などとお医者さんあたりから言われるのでしょうか(笑)

最後に、実際に鳴っている音楽です。

<ムジカ·インストゥルメンタリス>(楽器·声楽の音楽)
なんと、3つの音楽の中で最も位が下(泣)
えぇーって感じですが、実際に鳴ってる音楽は割とどうでもよくて、それよりもその背後にある秩序こそが「本当の」音楽だとされていました。
まさに宗教的というか、精神論というか価値観の違いを思い知らされます。「音楽?フッ、聴くもんじゃないね」とか言うスノッブな輩がいそうです(笑)

学問としての音楽

こうした考え方は古代ギリシャの時代からあったようです。ピタゴラスは音を「振動し鳴り響く数字」と捉え、そこに神の秩序を見出しました。
そこにある現象と背後にある秩序の探求。音楽はある種の科学と考えられていたのでしょうか。

実際、中世の大学では基礎学科である文法·修辞·学弁論術に対して音楽が幾何学·代数·天文学と並ぶより高等な数学的学問とされていました。
音楽は快楽のためではなく、科学や哲学に近いものだったようです。

神の国の秩序

ここでペロタンらに話を戻しますが、上に挙げた音楽観を踏まえると当時の音楽家たちの意識にあったのは、多くが「神の国の秩序の表現(または再現)」ではなかったのでしょうか。極めて禁欲的でストイックな響きを持つ音の群像に神の国の秩序を見出そうとした。ペロタンの作品に触れるとそんなことを思わされます。(その一方で当の教会は権威を示さんとばかりにバンバンゴシック教会を建てまくるわけですが笑)

さて、なぜそんな表現が出来たのか。具体的に音楽の和声(ハーモニー)構造やリズムなどについて言及すると、例えば彼らの音楽はもっぱら「三」拍子で構成されています。人間の生理的なリズムから言えば二拍子の方が当然カウントしやすいわけですが、神の秩序「三位一体」を表現するために三拍子を使っていたと。(後の時代、14世紀に入ってからは二拍子系が導入されて教会は「神への冒涜だ!」と激怒しております。めんどくさいですね笑)

人間が聴くものではなかった時代の音楽を現代に生きる私たちは聴くことが出来ます。ペロタンらの音楽を聴く時に今回の話を思い出してみるのもちょっと面白いかも知れません。

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