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入るべき門?

「何だ?このタイトルは…。」と思われた方には予めことわっておくが、この記事は「入門」という言葉が与える印象について私なりの考えを述べたものだ。

 例えば、剣道、柔道、華道、茶道、書道や弓道など「〜道」というような名の付いた、師範と弟子で成り立つ師弟制度によって組織づくられた集団には初心者に対する「入門」という段階が存在する。しかし、その関係性がもともと無いか、あるいは崩壊した状況においては、すでに「入るための門がない」状態なので、いつでも誰でも出入りが自由で、しかも入場無料状態だ。短歌も実は、これに該当する。こういったものにも「入門」という言葉が使われていることが実は多くて、果たしてそれが適切なのかどうかと私は考えてしまうわけである。

 ところで、私は趣味で詩も書くし、最近では短歌も書く。実は、和歌では長歌、片歌、旋頭歌や仏足石歌体の歌まで実験的に作っている。要するに、短歌以外の和歌は既に一通り創作済みで旋頭歌などは、数えたことはないが少なくとも300首以上は詠んでいるはずである。未だにたまに作っているので、数は少しずつ増える一方だ。これらの和歌を詠むのに、残念ながら先生もいなければ教本もない。過去の作品を自分で探し、それらをお手本にして自分でも作ってみるしか、やりようがないのだ。しかも、お手本となるものの数は短歌や俳句に比べて圧倒的に少ない。だから、取り組もうなんて言う人もあまりいない。そもそも「入門」なんていう恵まれた環境が無いのだ。しかし、これは言い方をかえれば、いつでも、誰でも、どこにいても、そして、どんなふうにも、「自由」に取り組めるということだ。もともと、門のようなものなんて存在していないか、あるいは、かつてはあったかもしれないが現在は既になくなっているというような状況なのだから。

 一方、世の中には「入門」という言葉が使われた本のなんと多いことだろう。しかも、そのうちの大半が拡大解釈の「比喩的な意味合い」で使っているものが多い。実際に、そういった本を斜め読みしてみただけでわかるが、内容は要するに「概説」「ガイド」「手引書」あるいは「マニュアル」に近いものまで「〜入門」という言葉が使ってある。勇んで扉を叩き、閉じられた門を開けてもらい、中に入るような本来の意味での入門とは明らかにイメージが違うのだ。広辞苑や国語辞典などで調べれば、確かに「〜の手引」的な二次的な意味での用例も記載されている。先程挙げた「比喩的な意味合い」というものだ。

 実際のところ、私が短歌を詠み始めるのに入門書の類いを読んで学んだという覚えはない。また、現代短歌の歌人の詠んだ歌を手本として使った覚えもない。ましてや、歌壇に所属し、そこの先生や先輩と呼ばれるような人達から教えを頂いた記憶も全くない。でも、今、間違いなく短歌を詠んでネットのコミュニティに投稿している。時折、コメントやいいねをいただくこともある。他の参加者の短歌を読んで、「いいなあ」と思ったり、「私だったらこんなふうにするのになあ」と思ったりすることもある。門などくぐらず、通らずに、気付けば歌を詠っている。

 それでも、書店や図書館の棚には「短歌入門」という文字の入った本が必ず置いてある。古典短歌研究の手引書なら私も興味があるので手にするだろうが、現代短歌に関しては、先に述べたように、必ずしも私には要らない類の本である。不安な人が読めば、不安の解消にはなるのでいいかもしれない。また、どうしても歌壇に所属したい人には必須の場合もあるので、一概には不要だといい切れない面もある。だが私のように、ただ漠然と短歌を詠んでみようかなというだけの「一般人」には、かえって遠回りになってしまう可能性もあるのだ。

 習うより慣れろではないが、まずは詠んでみる。「五七五七七」のリズムで、何でもいいから声に出して唱えてみる。古語ではなく、普段使っている言葉や言い回しを使って、このリズムを覚え込むように繰り返し作って、声に出して詠んでみる。ただそれだけを繰り返す。そして、ネットの短歌投稿サイトを開いて、そこに投稿している人の歌を、このリズムに合わせて読んでみる。そこで、自分なりの色々な気付きや発見があれば儲けだ。「五七五七七」のリズムで「詠む」と「読む」。この経験を毎日、ちょっとずつ繰り返す。私は、そんな短歌との付き合いをしてきているし、これからも基本は変わらないと思う。

 また、新聞・雑誌や結社などの歌壇への投稿は、今のところ一切していない。歌壇にも所属しているわけではない。それよりも個人で詠うことの楽しさを今は優先したいと思っている。要するに「趣味程度に短歌と向き合っている人」と思って頂いて結構だ。

 この記事を不快に思われたら大変申し訳なく思うが、どうか、「こんな考え方をする人もいるんだな」くらいに捉えて軽く読み流していただければ有り難いと思う。