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好きなら好きが一番いい

 ある短歌初心者の心の葛藤をもとに小さなお話を作ってみました。ショートショート的な文章ですが、よかったら読んでください。

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◆詠えども詠えども我が歌ばかり上達せずに追い越されてゆく◆


 短歌の投稿をしても、秀歌どころか入選や佳作にも選ばれない。一緒に始めた仲間が、どんどん高評価をもらい上へ上へと目標掲げ頑張っている。新しく入ってきた人達も好スタートで、気付けば自分よりも評価が高く、あれよあれよと言う間に昇級・昇段していく。それに比べて僕はと言えば、相変わらず冴えないような地味な歌ばかり詠い、周りからの評価も全く低く振るわない。作品の提出期限が迫っても、一向にこれだと思えるような作品が出来上がらず。自分で見ても「ダサい駄作だ」なんて、韻だけはちゃっかり踏んでいる詩人気質。はて、僕は一体何をしているのだろう。
 
◆働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る◆
                         <石川啄木>

 そんなことを考えていると、つい、こんな歌が脳裏をかすめる。啄木は、そんなとき「ぢっと手を見る」を繰り返して耐えていたのだろうが、僕は耐えるとかさえもなく、ただ他人事のように状況をぼんやりと眺めて、「みんなすげえな。」と感心している。それでも、「このままでいいのかなぁ。」なんて時々は思ってもみるけれど、すぐに忘れて、気付けば違うことをしている。自分でも情けないくらい奮起しない人だ。だから、上達しないのか、もともと短歌は向いていないのか。多分、その両方なのだろう。

 啄木の場合は、生活のかかった「働く」という行為に対して詠っているので、要するに死活問題なわけだ。一方、僕はと言えば、全くそのレベルではない。せいぜい「詠うことを楽しむ」レベルなのだ。どこまで真剣にやっても「短歌」だけでは食っていけないことは僕も知っている。趣味・教養レベルだから、生命活動を維持するのに、どうしても必要というものじゃない。そこで、いちいち他人の評価ばかり気にしていたら、つまらなくなってしまうだけじゃないか。

「負け惜しみを言うもんじゃない。みんなから称賛されたいとか思わないのか。この腰抜けめっ!」なんて言う人がいたら面白いのだが、そんなこと言ってくれる人さえ、現実には、いない。でも、もしこんなことを言われて、そのまま他人の評価に、その都度、一喜一憂(一喜はいいが一憂はネガティブだ)していたら、感情が波打ってしまって、自分を見失う危険性があるんじゃないだろうか。妄想癖のある人は、きっと、自分を責め立てるか、そのコミュニティを批判する方向に走るかのいずれかだろう。とても悲惨なことだ。幸い、僕には全くもってありえない状況だ。

 そこで、とてもありきたりな言葉だが、「好きこそものの上手なれ」とか「下手の横好き」なんていうのが、僕にはぴったり合うのかなと思う。「心から好きである」と思うことそれ自体が一番大事なこと。「下手」という評価などよそ目に自分が「好きという気持ち」でやっているなら、「誰からも優劣を評価することなんてできない」し、外からの「評価自体、あまり意味がなくなる」こと。まさに、今の僕がそういう状況だと思う。

 たとえはあまり良くないかも知れないが、短歌は一種の道具であり、それをうまく使いこなせるかどうかが本人の中での問題だと仮定するなら、自分の身の丈に合った使い方でその目的を果たすことこそ一番大切なことだろう。その原動力になるのは、周囲からの評価や称賛ではなく、「好き」という単純な感情であるはずだ。それさえずっと捨てずに信じていられれば詠い続けることができるだろう。別に短歌に愛される必要なんてない。そういう人はきっと天才なんだろう。でも、幸か不幸か僕は天才ではない。だが、天才以上に短歌を愛する自信ならある…とまでは行かないものの「好き」ではある。それで十分ではないだろうか。
 
◆好きと言い詠えば詠うほど好きになっていくのが僕のやり方◆

…なのである。こんな自分が僕は好きだ。