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今、短歌がおもしろい

 僕は毎日一首、ある投稿サイトに短歌を投稿している。今年の4月から始めて、もう6ヶ月目に入った。先月8月の初旬まで使っていた筆名を新たに変えて継続しているが、新筆名での投稿は、やっと20首を超えたところだ。以前の筆名で投稿していた短歌は実験的なものが多く、中には自分らしくない歌も多く混ざっている。読み返してみて「こんなの、よく投稿したよな。」と呆れてしまうものも少なくない。前筆名での作品は全部で140首弱であり、この数の短歌がデータとして今も、そのサイトに残っている。どうやら、一度投稿すると自分では削除できなくなるらしい。早いもので、通算で160首ほどにもなる。

 実を言うと、僕はこれまでまともに短歌を作ったことなどなかった。というより、作っていたのが自由詩ばかりなので、そこに短歌が入り込む余地がなかったのである。それが、最近ネットで知り合った友達の影響で「短歌を詠むこと」が楽しそうに見えてきたので、「そんなにおもしろいなら、ちょっとやってみようかな」という安易な気持ちで始めたのである。が、やってみたら、これが意外におもしろく、気付けば俗に言う「ハマっている」状態になっていた。それでも最近は、こういった高揚した気持ちが落ち着いてきたので、今が一つの節目ではないかと感じ、そのきっかけや意思表示として筆名を変更したのである。普通の人なら、いくら勉強とは言え自分らしくないと本人が感じる歌を詠い続けるのは自虐行為に近いものがあるだろう。しかも、評判や評価が落ちれば、なおさら自尊感情は傷つくに違いないし、それは僕だって同じである。

 そして、筆名を変えてからの投稿であるが、僕は全く他からの評価が気にならなくなった。自己満足ではないが、投稿する際に「これでいい」と納得の行く形にまでして出しているので、自分の中では、それ以上も以下も無いわけである。後は、どう評価されようと知ったことではない。評価が気にならなくなり、変な迷いが吹っ切れたためだろうか。お陰で順調なスタートを切ることができた。

 ところで、先程「僕はこれまで短歌をまともに作ったことはなかった」と述べたが、和歌としての短歌を鑑賞することは好きで、万葉集や古今集、新古今集などに載っている短歌を読むことも好きだ。また、百人一首に出てくる歌人や短歌ももちろん好きである。しかし実際に、これを自分で作る(詠む)となると話は別のことになってくるわけで、古語や古典短歌の修辞法、さらには和歌全般の基礎知識がないと全く歯が立たない。中学校や高校の国語の教科書の中には、近現代の短歌も取り上げられているが、それでさえ旧仮名遣いや古語めいたことばがちらほら見られて、それだけで短歌を敬遠する人も多いのではないかと思う。僕も全くそうであった。

 でも、それらは一切無用な心配であることがわかった。というのも、現代短歌は最早、純粋な和歌とは違った様相を呈しているからである。興味のある方は、googleなどの検索エンジンで「短歌投稿サイト」と打ち込んでいただいて、そのヒットしたサイトを開いて見ていただければわかると思う。たしかに、旧仮名遣いや古語を部分的に用いた短歌ばかり見られるサイトも存在しているが、そのほとんどは、「どちらでもよい」という立場のものだ。言ってみれば、比較的「ゆるい」のである。いろんなスタイルの短歌が混在していて、ちょっと覗いて見るだけでもおもしろい。中には「これって、入力ミスじゃない?」と思われるようなイレギュラーなものも見られることがあり、そんな投稿を見て僕は思わずひとり笑いしてしまうこともあるくらいである。それくらい気楽で自由な雰囲気だ。要するに、基本の「五七五七七」を守って、短い定型詩(原則決められたリズムを守って作られている詩)として創作すればよいわけで、俳句などに見られるような「季語」などは必要なく、その気になれば誰でも、いつでも、どこでも、そして、どんなふうにも作ることが出来るのである。

 それでも中には、こう言う人もいるかもしれない。「五七五七七を守って作るというのが、窮屈な感じで嫌だな。」と。確かに、文字数(音数)を守るというルールは一見窮屈な印象を受けるかも知れない。でも、これは慣れてしまえば大丈夫。経験だけでカバーできる部分なので、取り敢えず、繰り返し作っているうちにほとんどの人は解決してしまう問題だ。しかも、一字(一音)くらいの字余りや字足らずなら、百人一首の読み上げのように声に出して読んでみて、気にならなければ誰からも指摘はされないのが実情だ(とは言っても、短歌として投稿するなら、このルールは守られるべきものなので、始めから、でたらめなリズムで作るようなことはしてはいけないし、そういう意味での「原則」なのである)。

 もしも、これから短歌に取り組んでみたいと思う人がいたら、迷わず、ぜひ一度挑戦してみて欲しい。ネットの短歌投稿はハードルが低く、ユーザーの層も広い。何が正しくて何が間違っているなんて言うことは気にせず、やる気と意欲でなんとかカバーできる。短歌のルールなんて、基本「五七五七七」を守って気持ちよく自分が詠っていればいいのだ。日常の文章に近くても気にする必要はない。

 また、「いいね」や「お気に入り」がつかなくても自分がいいと思ったものを出せばいい。しかも、筆名なのでそれほど気にならないだろう。間違っても、他の人と競うとか、秀歌(優秀な歌・トップ評価の歌)を詠おうとか思わないほうが賢明だ。それよりも「これでいい」と思えるものを自分で納得がいくまでに仕上げて出すことのほうがずっと大切である。その上で、自分なりの「お気に入り作品集」が日に日に出来上がっていくのは、とても嬉しいし、時々読み返してみるのも楽しい。

 そして、さらに付け加えて言うなら、「いいね」の数は気にしないほうがいい。自分の心にブレが起きるからだ。他と比べたり、「いいね」数の多い人を羨ましがって歌を真似たりするのは、むしろ、よくないやり方で、結局は自分でも何をしているのかわからなくなってしまうだろう。また、僕がやったような実験的な投稿も、初めての人にはおすすめできない。前述したとおり、上手く行かなければ多大なメンタルダメージを受ける破目に陥る可能性が高いからだ。

 ただし、そうは言っても他の人の投稿作品の中には、読んでみて「いいな」「おもしろいな」と思えるものがたくさんあるだろう。それに目を通して「鑑賞」することは実は大切だ。なぜなら、きっとそこに「自分が目指している短歌」を詠むためのヒントが隠されているからだ。だから、評価や評判にとらわれず、できるだけ多くの歌に目を通したほうがいい。そのことだけ、しっかりと気に留めながら取り組めば、それほど時間をかけずに短歌が詠めるようになり、気付けば「短歌の人(歌人)」になっている自分に気付くはずだ。この記事を読んで、少しでも短歌に興味を持ち、歌詠みの楽しい世界に入って行くことの出来るきっかけが得られた人がいたとすれば、僕は嬉しく思う。そして一人でも多くの歌人が増えることは日本の文化にとっても絶対にプラスに働くと思っている。

 どうも僕は詩について意見をまとめようとすると、とりとめもないことを延々と書いてしまう悪い癖がある。その点については、温かい目で見ていただき、どうかお許し願いたい。また、最後まで、このような稚拙な乱文にお付き合いくださったことに心から感謝を申し上げたい。