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【教皇庁†禁書ジャンヌ・ダルク伝】上巻①子供時代

アナトール・フランス著「ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)」全文翻訳を目指しています。原著は1908年発行。

1920年、ジャンヌ・ダルク列聖。
1921年、A・フランスはノーベル文学賞を受賞しますが、1922年にローマ教皇庁の禁書目録に登録。現在、禁書制度は廃止されていますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

目次一覧とリンク集↓↓


Chapter I.
Childhood(子供時代)

字数が多い(約1万3000字)ため、訳者の裁量で「小見出し」をつけています。

1.1 生まれ故郷

 ヌフシャトーからヴォークルールまで、ムーズ川の清らかな水は、ポプラ並木とヘーゼルや柳の低木に覆われた堤防の間を自由に流れている。急に曲がりくねったり緩やかなカーブを描きながらどこまでも細く流れて、緑がかった糸のような水流がまた集まったり、あちこちで突然地下にもぐって見えなくなったりする。
 夏になると、浅い河床に生えている葦がほとんど曲がらないほど緩やかに川は流れていて、わずかな砂や苔に覆われていないイグサの塊に水の流れを堰き止められているのを土手から見ることができる。
 しかし、大雨の季節になると突然の急流で増水し、より深く、より急速に流れてくるので、土手には露のようなものが残り、澄んだ水たまりの中で谷の草と水平に上昇する。

 低い丘の間には幅2~3マイルほどの谷が途切れることなく伸びており、緩やかな起伏の丘は樫、カエデ、白樺で覆われている。春には野の花が咲き乱れるが、その姿はおごそかで、重厚で、時には悲しげにさえ見える。緑の草は淀んだ水のようで、単調な印象を与える。
 晴れた日でさえ、人々は硬く寒い気候を意識している。涙ぐむような微笑みを浮かべながら、この繊細で静かな風景のすべての動き、優雅さ、絶妙な魅力を構成している。
 そして冬になると、空は大地と混ざり合い、一種の混沌とした状態になる。霧が厚くまとわりついて降りてくる。夏になると谷底を覆う白く光る霧は、厚い雲と暗い影が動いて山々に場所を譲り、赤く冷たい太陽によってゆっくりと散らされる。
 早朝の高地に迷い込んだ放浪者は、雲の上を歩いているかのようなうっとりした心地で、神秘的な夢を見るかもしれない。

 この左手には森に覆われた台地があり、その高台からはブルレモン城がソーネルの谷を見下ろし、右手には古い教会のあるクスィーがあり、西のレ・ボワシュヌ(樫の木)と東のジュリアンの丘の間を曲がりくねった川が流れている。
 川は、西岸のドンレミとグローが隣接する村を通り、グローとマクシ・シュル・ミュゼの間を隔てて流れている。丘のくぼみに隠れていたり、高台にそびえ立っている村々の間——ビュレイ・ラ・コート、マクシ・シュル・ヴェーズ、ビュレイ・アン・ヴォーを通り、ヴォークルールの美しい牧草地に水を供給している。[147]


1.2 ジャンヌ・ダルク誕生

 ドンレミという小さな村は、ヌフシャトーから7.5マイル下流、ヴォークルールよりも12.5マイル上流に位置する。
 1410年〜1412年ごろ[148]、この小村で数奇な人生を送ることになる女児が生まれた。少女は貧しい生まれだった。
 父親のジャック・ダルクはシャンパーニュ地方セフォン村出身の小作人で、自分で馬を動かして耕していた[151]。近所の人たちは、男女を問わず、彼を善良なクリスチャンであり、勤勉な労働者であると評価していた。[152]
 妻はドンレミの北西約4マイル、グローの森を越えたところにあるヴュートン村から嫁いできた。本名はイザベルまたはザビレで、いつ頃からかロメと呼ばれるようになった。ロメという名は、ローマに巡礼したか、または他の重要な巡礼地に行った人につけられた呼び名で、イザベルは巡礼者の徽章と杖を持っていたためにロメという愛称で呼ばれたのかもしれない。ロメの兄弟のひとりは教区の司祭で、もうひとりは漁師で、甥は大工だった。
 夫婦の間にはすでに3人の子供がいて、ジャック(またはジャックマン)、カトリーヌ、ジャンと名付けられた。[157]

 ジャック・ダルクの家は、ガリアの守護聖人・聖レミ(レミギウス)に捧げられた小教区にある聖レミ教会の敷地内のはずれにあった。[158]
 当時、洗礼式で司祭が行う悪魔払いの儀式は、男児よりも女児の方がはるかに長かったと言われている。小教区の司祭だったミシェル・ジャン・ミネが、完全な形式で女児の悪魔払いを行ったかどうかは分からない。だが、こういう習慣は、女性に対する教会の偏見を示す兆候のひとつであると気づかされる。

 当時の風習によれば、子供には複数の名付け親(教父と教母)がいたという。
 ジャンヌの教父は、グルー村のジャン・モレル、ヌフシャトーのジャン・バレイ、ジャン・ル・ランガート、ジャン・レインゲッソンであった。
 教母は、ドンレミ村のテヴナン・ル・ロワイエ(別名ロゼ)の妻ジャネット、同じ村のエステリンの妻ベアトリクスがいた。ジャン・バレイの妻エディット、オーブリットの妻ジャンヌ(オーブリットがブルレモン領主の秘書だった時はメイル・オーブリットと呼ばれていた)、ヌフシャトーの学者ティエッセラン・ド・ヴィッテルの妻ジャネット。彼女は、本から読み聞かせた話をよく知っていたため、村一番の物知りであった。
 その他に、ジャンヌの教母として、ジャックの弟ニコラ・ダルクの妻アニエスとシビル(巫女、女預言者)と呼ばれる二人のキリスト教徒も含まれている。

 よくある善良なカトリック教徒たちと同様に、ジャン、ジャンヌ、ジャネットという名前がいくつも登場する。

 洗礼者のヨハネは、高名な聖人である。6月24日に行われる祝祭は一般的にも宗教的にも重要な祝日で、貸借や雇用などあらゆる種類の契約をこの日に結ぶ習わしだった。
 福音書のヨハネは、天国でもっとも偉大な聖人であるとされる。ある種の聖職者(特に托鉢修道士)たちは、救世主の胸の上に頭を置き、この世界が終末を迎えるときに地上に戻ると信じられていた。

 ふたりの聖ヨハネに敬意を表して、子供が洗礼を受けるときにジャンやジャンヌという名付けが好まれた。聖なる名前には、無力な子供と謙虚な運命を表すために、Jeannot(ジャンノ)やJeannette(ジャネット)というバリエーションが付けられた。
 ムーズ川のほとりの農民たちは、愛想が良くて気取っていない謙虚な女性を特に好んでいた。教母や教父の妻たちの名にあやかって、ジャック・ダルクの子供はジャネットと名付けられた。
 故郷の村ではこの名で通っていたが、のちに彼女はジャンヌと呼ばれるようになった。[167]

【※誤字脱字・誤訳を修正していない一次翻訳はこちら→教皇庁†禁書指定「ジャンヌ・ダルク伝」

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