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介護と看取りー「娘」として最後の役割を全うしようとした母のこと

朝6時、アラームが鳴って目が覚める。隣で寝ている同居人をどうやら起こしたようだったのでごめんねと声をかけた。彼は何かむにゃむにゃと私に断りを入れてから朝日の方角と私とに背を向けて、また眠りについた。最近のわたしはめっぽう朝に強くなった。少し前まで睡眠薬がないとどうにもならなかったなんて信じられないほどに。

ローレン ラルフローレンの真っ黒いフォーマルなワンピースに袖を通す。喪服としてこれを着るのは、2回目だった。前日にまとめておいた45リットルのゴミ袋を左手に、右手にはユニクロで間に合わせた真っ黒いバッグを持ち、私は家を出た。今日は燃えるゴミの日。そして、祖父の葬式の日。

実家の最寄り駅まで電車で移動して、義父の運転する車に合流する。母が「あなたのジャスミンティー買っておいたよ」と言ったので、わたしは「あ、そうなのありがとう、飲み物さっき買ってきちゃった」と言いながら自分の買った午後の紅茶を車のドリンクホルダーにしまう。母が、「ジャスミンティー好きだったなと思ったけど…ほんと親っていつまでも子どもが昔好きだったものばっかり言うものね」と言いながら笑う。それにつられて運転席の義父と、後部座席の妹も笑った。わたしは母の発言に驚いて、いやジャスミンティーも今でも飲むよ、さっき売ってなかったから買わなかっただけで…とか何とか言った。時間の隔たりを、わたしと母の距離を、母が自覚しようとしていることが分かって胸が痛かった。私がここ数年、母と関わりを極力持たないようにしているのは、彼女から自分を守るためだったが、そうすることで確実に彼女を傷つけた事実に対してはまだ私自身、戸惑っている。

わたしは取り繕うかのように昔、家族で行った海外旅行の話なんかをした。この話は何度も何度もしている気がする。みんなが笑って話せる話題だから。一通り話すと、母は今日の葬儀の段取りと出席者の説明をして、そして努めて軽い口調で、私の養子縁組はどういう意味なのか、結婚はしないということなのか、いま一緒に住んでいるのはそのパートナーなのかという質問をした。私はそれらすべてに曖昧に答えた。

そこには踏み込まないでほしい。ごめんね、そういうふうにあなたに気を許したわけじゃないの。今日はあなたのそばにいて、支えることだけを目的にここへ来た。

介護施設にいる祖母は、祖父が亡くなったことを数時間ごとに忘れてしまうという。彼女が今日の喪主。介護施設にいる喪主をまず車で迎えに行く。コロナが流行り始めてから、介護施設にいるお年寄りたちはろくに外に出れていないらしく、今日は久しぶりのお出かけなのだという。よく分からず着せられた喪服姿の祖母が、ご機嫌な様子で車に乗った。5人乗りの自動車に、かろうじて血が繋がっている人間たちが、今日だけはファンクショナルな家族のふりをしながら同じ場所へ向かって走る。

自衛隊基地の近くに葬儀場はあった。大きな飛行機が私たちの頭上を飛んでゆく。車から降りようとする祖母を、転ばないように支える。おおよそ10年ぶりに会う祖母は背中が丸まって、一段と小さくなったように感じた。葬儀場に入ると認知症の祖母に代わって母が葬儀場の方と段取りの話を始めた。私は、祖母のそばについて、今日の実質上の喪主である母が心配せず仕事に専念できるように努めた。

私の母には兄がいるのだが、遠方にいるということでその日現れることはなかった。その日だけでなく、母が祖父と祖母を介護しはじめた数年前から手伝いを全くしなかったのだと思う。私の叔父は昔からそのような人で、母ははなから当てにしていなかった。母は、こうやって一人で両親を看取ることを、きっと幼い頃から覚悟していた。祖父も祖母も含めて自分の家族にはしっかりした人がいないから自分が責任を負わなければいけない、そんな風に思っていることを母の喪服姿を見ながら感じた。母だってそれを自ら喜んで選んだ訳ではないはずなのに。

しかし私だって介護はおろかここ数年実家すら帰っていなかったのだから、人のことは言えない。

だからせめて葬式の日くらい、母のために在りたかったのだ、娘として。あなたをサポートすると、そう伝えたかったのかもしれない。

だから、参列者からいただいた香典を母が私に持つように頼んで、私はとても誇らしかった。大きなお金だから、保管を頼むねと。数年ぶりに、娘として母のために何かができた気がした。母に頼られて嬉しかった。

葬儀の数日前。
祖父が亡くなったと母からメッセージがあって、私は数年ぶりに実家に帰った。葬式の準備が忙しかったからであろうか、私が出て行ったときより確実に家の中が散らかっていて、私はその光景にまず面食らった。いや、その散乱ぶりはここ数日でのものではなく常態化している様子で、ショックだった。母が若かった頃に買った柔らかい皮のソファや小さな額に飾られた絵が、大量の服や新聞チラシだとかに埋もれていた。まあでも、これが実家として自然なのかもしれない。私はきっと、若かった頃の母のままで記憶が止まってしまっている。若かった頃のまま、母には強い人でいてほしいのかもしれない。母がそうであるように、私も母の変化を受け入れられずにいる。

物が散乱しているリビングの中で、亡くなる直前に撮った祖父の動画を母が見せてくれた。そこに映っていたのは息苦しそうな祖父の姿と、「お父さん、お父さん」と声をかける母の声だった。母が娘として祖父の前に座っている。この人は、きちんと娘を全うして父親を看取った。その数十秒の動画に、ここ数年の母の姿を垣間見たような気がした。

私は散らかった実家を出て、自分の家までの道を泣きながら歩いた。私もいつかはこうあるべきなのかもしれない。親と向き合って、きちんと娘として親の顔を見つめながら最期を迎えるのが、自分のためなのかもしれないと思わされた。母が祖父に向ける声があまりにも真っ直ぐだったから。
「お父さんお父さん、頑張ってるね、みんなお父さんに会いにここにいるからね。」

葬儀は淡々と進んでいった。
母は終始気丈に振る舞っていて、それは周囲を安心させるのに十分だった。大往生だったと母が言うので、参列したみんなを、そうだね、大往生で幸せだったねと明るい気持ちにさせた。実際、勝手に母を心配していた私も式が終わる頃にはすっかり安心していた。

その日一度だけ、収骨の際に母の涙を見た。人生で初めて母が泣くのをみたかもしれない。私は彼女が一粒の涙を流すのを遠くから眺めていた。一日だけ母と娘を演じられたとしても、私には彼女が何を思っているのかはわからない。関係が必ずしも良好な時期ばかりでなかったであろう親の看病をし続けた日々は、どういう気持ちで過ごしていたのか。看取る時には、何を思ったのだろうか。

21年前、私の父と離婚して、5歳の私を置いて家を出て行った母。彼女と私はあの時からずっとお互いの溝を埋められずにいる。

私は、その溝を埋めるつもりはない。埋める必要もない。彼女も自分の人生を生きている。私も娘というロールを脱いで、私の人生を淡々と進めていくだけだ。

葬式場から何度も電車を乗り継ぎ、乗り慣れた路線に乗り込む。ぼんやりと明日の仕事のことを考えながら私はいつもの帰り道に戻っていった。いつもの道。私と母が交わらないこの街。私がいま生きる街に戻ってきた。

「電気消すね」と言ってリビングの照明を切る。整頓された我が家。喪服を脱ぎ、ここへ帰ってきたことに私は安堵した。私はベットに潜り込み、同居人の腕に自分の腕を組む。私は眠りに落ちた。

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