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特集:冬戦争時の日本陸軍の在芬諜報(Vol.2)

1939年10月11日から12日にかけて、ソ連の首都モスクワではフィンランドとソ連間の領土問題を巡る外交交渉が行われていた。

フィンランド代表団は、ソ連国境に程近い3つの小さな島々をソ連へ割譲もしくはソ連領土と交換する交渉権限しか与えられていなかったが、ソ連側は要求を更に引き上げ、フィンランドに対して、カレリア地方におけるソ連との国境地帯(フィンランドにとっては国境線を20km後退させる事になる)、フィンランド湾の3つの島々、そしてルイバチ(Rybachi)半島の全てという複数のフィンランド領土を要求していた。

また、ソ連側要求には国境地帯に置けるフィンランド軍の要塞線の完全破壊並びに、フィンランドの首都ヘルシンキから100kmしか離れていないハンコ(Hanko)への5,000名のソ連軍駐屯まで含まれていた。その代償として、ソ連は5,500平方メートルに及ぶ東部カレリア地方のソ連領土をフィンランドに引き渡す条件を提示していたが、それは首都目前にソ連軍を駐屯させた上で複数の領土を奪い、結果としてフィンランドの属国化を図ろうとする魂胆が見え見えであり、フィンランドにとっては自国の安全保障を犠牲にするほどの価値は無かった。フィンランド・ソ連間の外交交渉は1939年11月まで続いたが、妥協点の見えない不毛なやり取りが続いた。

そして、11月26日、ソ連側は突如として「国境地帯においてフィンランド軍による砲撃を受けた」と発表。のちに”マイニラ事件”と呼ばれるこの事件はソ連側がフィンランド領を砲撃し、それをフィンランドの責任に転嫁していたのだった。ソ連側は直ちに国境から20-25km以内にいる全フィンランド軍の撤退を要求。11月28日、この事件を受けて、フィンランドはソ連との不可侵条約(1932年締結)破棄を宣言し、ソ連との外交交渉は打ち切りとなる。そして2日後の11月30日にはソ連によるフィンランド侵攻が開始された。

1939年11月30日、ソ連軍の空襲を受けるフィンランドの首都ヘルシンキ都心部。提供: SA-Kuva

実はソ連側が極秘裏に対フィンランド戦争計画を承認していた1939年夏の段階で、日本陸軍はラトビア駐在武官の小野打寛(おのうち・ひろし)中佐を通じて、現地のフィンランド軍駐在武官に対して「昭和通商」*を通じた日本製武器の売却を打診していた。しかし、フィンランド軍側はこれに興味を示さず、話は一旦お流れとなっていた。

日本陸軍ラトビア駐在武官(1939年当時)の小野打寛中佐。写真は、フィンランド駐在武官時(1940-44年)のもの。

だが、11月30日の開戦当日、小野打中佐はラトビアの首都リガからエストニアを経由して、フェリーでフィンランドに入国している事が確認されている。小野打自身の回想ではこの後、冬戦争の期間中にフィンランド軍側から日本製兵器の購入が打診されたが、今度は東京の陸軍参謀本部がこれを拒否したとされている。

*「昭和通商」とは日本陸軍の強い影響下で、1939年4月に設立された半官半民の商社。日本製兵器の海外輸出や海外製兵器の輸入などを担当していた。

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