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【特集】1940年6月にエストニアで何が起きたのか(Part.1)

この記事では、ソ連によるエストニア占領(1940年6月)の前段階において、何が起きたのか概要を簡単にまとめました。(※筆者は全ての一次・二次・三次史料をあたったわけではありませんので、あくまで知っている範囲での概要となります)

第二次世界大戦勃発直前の1939年8月23日、ソ連の首都モスクワにおいて独ソ不可侵条約が締結。この条約には秘密議定書が附属し、独ソ両大国によるフィンランドからポーランドまでの北欧・中欧諸国の分割占領が明記されていた。この分割占領地域にはエストニアを含むバルト三国も含まれていた。

この秘密議定書の存在は一切公表されず、占領対象となった国々の中で、フィンランドとエストニアは「密約」の一部について勘づいていた、気付いていたとされている。

そして、1939年9月1日から始まったドイツのポーランド侵攻(ソ連も17日に参戦)によって、ポーランドは独ソによって分割占領された。この出来事の直後、ソ連政府はフィンランドとバルト三国に対し、外交的・軍事的圧力を強め、ソ連軍のそれぞれの国々への駐留を認める「相互援助条約」の締結を迫った。

9月24日、対ソ交渉のためモスクワを訪問中のカルル=セルテル(Karl Selter)外相(エストニア)は、ソ連政府からエストニア国内へのソ連軍駐留を認めるよう最後通牒を受け取る。この圧力に折れたエストニア政府は9月28日、ついに相互援助条約の調印に踏み切った。

しかし、エストニア・ソ連相互援助条約が調印されたにも関わらず、ソ連の攻撃姿勢は止むことは無かった。調印前日の9月27日、TASS(ソ連国営通信社)は独ソのポーランド侵攻の最中に起きた「オジェウ」事件※を理由として、「バルト海に潜む敵対勢力の潜水艦からソ連領海の安全を守るための手段についての協議がエストニア・ソ連間で始まった」という虚偽の内容のコミュニケを発表した。オジェウ事件は、ソ連側に取ってエストニアに自分たちの条件をのませるための都合の良い口実として使われていた。

※ポーランド海軍所属の潜水艦「オジェウ」が中立国エストニアのタリン軍港に入港したため武装解除の上で乗員らは抑留されたが、後に艦ごと脱走し、エストニア領海近くのナルヴァ湾でソ連船籍のタンカー「メタリスト」を撃沈した(これはそもそも起きなかったか、オジェウの行為で無いとする説が有力)とされる事件。事件当時、ソ連側はエストニア政府の責任として強く非難した。

一方、裏では9月29日、ソ連海軍バルト海艦隊司令官トリブツ(Три́буц)はソ連軍によるエストニア占領のための「ヴルカン(火山)」作戦に関する指令第4号に署名していた。

この作戦計画によれば、フィンランドとラトビアの中立を守りつつ、ソ連地上軍がナルヴァのソ連・エストニア国境を越えて、エストニアの首都タリンを目指して同国へ侵攻し、その作戦補助のためにバルト海艦隊がエストニア海軍を撃破し、フィンランド湾封鎖を実施するというものであった。

10月2日、タリンでエストニア国内でのソ連軍受け入れに関する、エストニア・ソ連軍事代表団間の協議が始まった。

1939年10月10日、タリンを出発するソ連軍事代表団首席のメレツコフ(左)を見送るニコライ=レエク(エストニア軍)参謀総長(右)

10月11日、両者はエストニア国内におけるソ連軍基地の場所について合意。ソ連海軍バルト海艦隊についてはパルディスキ(Paldiski)とタリン(Tallinn)、空軍基地がサーレマー(Saaremaa)島などに計画された。そして、10月18日から19日にかけて、ソ連軍がエストニアへの進駐を開始し、合計で20,000名近いソ連軍将兵、283両の戦車、255機の軍用機などが同国国内に配備された。


1939-1940年にかけてエストニアに駐留したソ連軍の配置図。特にサーレマー島、ヒーウマー島、ハープサル(Haapsalu)、そしてパルディスキ一帯は完全にソ連軍の管理下に置かれた。


この間、10月5日にはラトビア、10月10日にはリトアニアが同様の相互援助条約をソ連と結ばされていた。

だが、エストニア駐留を開始したソ連軍はこの駐留が一時的なもので無い事を彼ら自身の行動によって明らかにしていた。10,000人に及ぶソ連軍建設部隊の新規駐留と各駐留地の要塞化工事、ソ連軍司令官と家族向けのアパート要求などエストニア政府への要求はどんどんエスカレートしていった。

それと同時に、ソ連軍進駐に伴うトラブルも増加していた。酔ったソ連軍兵士らによる暴力事件(民間人への発砲含む)やエストニアの主権侵害(不法占拠など)は日に日に増え、パルディスキ海軍基地での火災についてはソ連軍がエストニア消防の立ち入りを拒み、ハープサル(Haapsalu)ではソ連軍から、街でのエストニア国旗掲揚を禁止するよう何度も要請が成された。

同時期にエストニアと同じくソ連軍進駐を受け入れたラトビアは、戦前からバルト三国の中心として海外各国の公館や駐在武官事務所が置かれており、エストニアよりも外国人の視線が多くあった。ラトビア駐在米軍武官は、ラトビアやリトアニアに進駐してきたソ連軍について次のように米本国へ報告している。

「ソ連兵らは気ままに地元住民から略奪を繰り返し、ソ連戦闘機は我が物顔で地上を機銃掃射している。また、ソ連兵らは地元の橋を突然封鎖して、住民に銃を突き付けて通行料として金品を巻き上げるといった行為を繰り返している。彼らは列車に乗れば、車掌に特別待遇の要求を出し、受け入れられなければ銃口を向けるだけだ」と。

(次回に続く)

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