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ソ連軍による占領に際し、エストニア軍が抵抗した、知られざる「ラウア通りの戦い」(1940年)

「第二次世界大戦において、フィンランドはソ連に対し善く抵抗し独立を守り抜いたが、バルト三国はソ連の圧力に屈し、無抵抗で独立を売り渡した」

筆者もこの話は昔からよく聞いていた。

しかし、果たしてそれは事実なのだろうか?

―1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約。その秘密議定書に基づき、ポーランド、バルト三国、フィンランドの3つの地域がドイツとソ連の間で極秘裏に分割占領されることとなった。

エストニアを含めたバルト三国は全てソ連が占領可能な地域とされた。

そして、1940年6月16日、ソ連政府はエストニアに対し、親ソ政権の樹立を求める最後通牒を発し、翌17日午前5時、ソ連軍11万5,000名の兵力を以てエストニアへ侵攻した。翌18日までにソ連軍はエストニアの鉄道駅、空港、港、そして政府機関や通信施設のほぼ全てを制圧した。

1939年秋にソ連と相互援助条約を締結し、国内にソ連軍の駐留を認めていたエストニアは武力抵抗を諦め、19日には占領軍最高代表としてアンドレイ=ジュダーノフがモスクワから到着し、エストニアのソ連への併合を目指すこととなった。そのため、ソ連軍はエストニア人共産主義者らによるクーデターを計画していた。

6月21日午前10時、タリン都心部の自由広場に突如として2,000人のデモ隊が現れ、「ソ連政府との相互援助条約を完全に履行できる政府を!」「戦争屋の現政府を解体せよ!」と叫び始めた。

ソ連に扇動されたデモ隊はカドリオルグ公園にある大統領宮殿や政治犯を収容していたパタレイ刑務所にも現れ、現政府の解体を訴えるのみでなく、ソ連軍の協力を得ては、親ソ的として収容されていた政治犯らを次々に釈放し始めた。

このクーデター騒ぎの中、タリン市内のエストニア国防軍参謀本部や警察本部もデモ隊に取り囲まれる騒ぎとなり、ソ連軍の監視の下でエストニア軍や警察の武装解除が進められた。

午後6時45分には、デモ隊によってタリン都心部のトームペア塔に掲げられたエストニア国旗が降ろされ、ソ連の赤旗が代わりに掲揚された。午後10時頃には、新首相として、左派言論人として知られていたヨハンネス=ヴァレス(Johannes Vares)が任命され、「エストニア革命は成った」とデモ隊は宣言した。

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【1940年6月21日、タリン市内のパタレイ刑務所で政治犯の釈放を求めて現れたソ連軍のBA-10装甲車とデモ隊の一部】

6月21日午後7時30分、タリン市内のラウア(Raua)通りにある「タリン第21学校」の校舎に駐屯していたエストニア軍通信大隊(Sidepataljon)もまた武装解除を求められた。(通信大隊は6月17日のソ連軍進駐に伴い駐屯地からの退去を命じられ、夏季休暇中の学校を臨時の宿営地として利用していた)

武装解除の交渉に現れたのは、エストニア人共産主義者の志願兵から成る民兵組織「労働者防衛隊」(Töölisomakaitse)のメンバーら(約10-30名)で、小銃と拳銃で武装していた。何人かは明らかに泥酔していたという。しかし、通信大隊指揮官のオット=カレル(Otto Karell)中佐はその時には不在で、代わりに交渉を行った通信大隊代表は民間人の集団に過ぎない労働者防衛隊への武器引き渡しを拒否し、民兵らはソ連軍の応援を呼ぶためにいったんその場から離れた。

約30分後、民兵らの通報によってソ連軍が出動させた6輌のBA-10装甲車が現場に到着。ソ連軍は民兵の要求を繰り返し、通信大隊はいくらかの武器と弾薬をソ連軍に引き渡したが、ソ連軍と民兵らはそれらに飽き足らず、時計や財布といったエストニア兵の私物まで略奪し始めた。通信大隊の担当者らは抗議したが、逆に銃を突き付けられ、壁に押さえつけられてしまい、そのまま略奪は続いた。

【ラウア通りにソ連軍が派遣したBA-10装甲車。装甲6-15mm、主砲:45mm砲(49発搭載)、7.62mm機銃x2(2,079発搭載)】

その後、約6-8名の武装した民兵とソ連軍により、通信大隊から運び出された弾薬の移送が着々と行われたが、校舎の中庭にはまだ集積された武器や弾薬が残っており、明らかにそのいくつかはソ連軍や民兵による接収を回避するために隠匿されていた。

その場に残されていた武器として確実なのは7-8丁の小銃と弾薬で、1920年代から通信大隊の装備として扱われていた、イギリス製のP.14エンフィールド小銃(口径7.7mm)だったと考えられている。

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【タリン第21学校 (Tallinna 21. Kool)。エストニアを代表する名門校として知られ、現在もトームペア塔でのエストニア国旗掲揚式を執り行う代表校に選ばれている】
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6月21日午後11時から11時30分にかけて、学校正門前で通信大隊を監視していた民兵らの交替が行われた。新たに到着した民兵らは校舎内の巡察を通信部隊に要求したが拒否され、そして民兵の代表者2名が通信大隊に対して即時の武装解除を求めた。

その時、どこからか民兵らを非難する声が聞こえ(恐らく通信大隊員か)、民兵の1人が校舎内へ強行突入しようとした。正門で民兵らの警戒にあたっていた通信大隊員のヨハンネス=マンドレ(Johannes Mandre)一等兵はこの男を止めようとし、民兵の中から「同志よ!撃て!」という掛け声が響き渡った。そして、マンドレ一等兵は民兵に胸部を撃たれ、数歩ふらついた後に倒れた。ほぼ即死だったという。

通信大隊のもう1人の守衛だったエンデル=ホルン(Endel Horn)伍長は即座に反撃し、民兵2名を撃ったと証言している。ホルンは直後、校舎内へ退避し、窓から民兵らへの射撃を続けた。

銃声を聞いて現場に駆け付けた他の通信大隊員らは正門前の校庭に倒れる2人の負傷者を発見し、ソ連軍のBA-10装甲車から浴びせられる機関銃や民兵らの射撃の中、中庭に集積してあった通信大隊の備品を盾替わりに使いながら彼らを救出し、部隊の公用車で軍病院へと搬送した。通信大隊側も発砲しつつ、負傷者救出を援護したと思われる。

この戦闘での負傷者の中には、通信大隊の予備役将校だったアレクセイ=マンニクス(Aleksei Männikus)も含まれ、彼は搬送後に死亡が確認され、この事件における2名の戦死者(片方は先述のマンドレ一等兵)の1人となった。

通信大隊指揮官のカレル中佐は、エストニア軍参謀本部へ戦闘発生の報告を送り、ソ連軍に掛け合ってすぐに戦闘中止を命じるように要請した。しかし、エストニア側からのソ連占領軍への連絡は上手くいかず、発足したばかりのエストニア新政権で国防大臣に任命されたトゥニス=ロトベルク(Tõnis Rotberg)少将が現場へと停戦交渉のために向かった。

現場に到着したロトベルク国防相はまず民兵とソ連軍に対し戦闘停止を要請し、次にエストニア軍通信大隊に対し交戦停止と降伏を命じた。ロトベルグの指示に従った部隊員らは武器を捨てて、両手を上げながら校舎から出てきたという。通信大隊の降伏を確認した民兵らはすぐに校舎へ突入し、残りの武器を全て押収した。

ここからは公式な記録が残っていない曖昧な話となるが、通信大隊の降伏後、ソ連軍指揮官と民兵らは報復として部隊員らの銃殺を求めたとされる。一方、降伏した部隊員らは直後に駆け付けた地元住民らによって守られ、一命を取り留めたとも言われる。

この「ラウア通りの戦い」(Raua tänava lahing)はエストニア軍側に死者2名(先述のマンドレ一等兵と予備役将校マンニクス)、ソ連軍と民兵側に負傷者10名を出す事件となった。


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【1940年6月21日の事件当夜、タリン第21学校の窓から撮影されたと思われる写真。ソ連軍のBA-10装甲車の周りに地元住民?民兵?が集まっているのが分かる。戦闘終結直後のものか。】
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【2019年現在のラウア(Raua)通り。1940年当時の道路を挟んだアパートが現存している】

ラウア通りの戦いの後、エストニアはソ連監視下での出来レースの総選挙を経て、ヴァレス政権はソ連邦への併合を宣言。この後、1990年代までの半世紀近くをソ連領として苦しい時代を歩んだ。ラウア通りの戦いに関する言及はエストニアの独立回復まで厳禁とされていた。


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【タリン第21学校前に置かれた「ラウア通りの戦い」における通信部隊の抵抗と犠牲者を顕彰する石碑】
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2018年8月11日、ラウア通りの戦いに参加したエドゥアルド=メエマン(Eduard Meemann)元一等兵が99歳で逝去した際、エストニア国防軍最高司令官リホ=テラス(Riho Terras)将軍(当時)は次のように弔辞を述べた。

「(ソ連)占領軍に対してのエストニア軍通信大隊の勇気ある武力抵抗は、エストニア共和国という存在の合法性の基礎を成す重要な出来事である。我々はメエマン氏の勇気ある行動を讃え、彼のかつての戦友達も彼の行動を決して忘れないだろう」


独立回復後に再建されたエストニア国防軍の指揮・通信大隊(Staabi ja sidepataljon)は、現在もタリン第21学校において亡くなった2名の戦死者を追悼し顕彰する式典を定期的に開催している。

参考文献等:

1) Ojalo, H. & Kõrver, R. Raua tänava lahing: Sidepataljoni vastuhakk 21. juunil 1940. Sentinel, Tallinn, 2010.





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