じさつとたましい36
テレビやソファが置かれているスペースに人が集まっていた。
「ちょうどこれから、作業療法士さんがヨガをしてくれるところですね」
ポロシャツにチノパン姿の、男性と女性のスタッフさんが、アロマスプレーをふわぁっとまいていた。
BGMとして、ハワイの朝みたいな穏やかな曲が流れている。
「作業療法士さんというのは、リハビリの仕事なんですね。麻痺なんかで体がうまく動かせなくなった方の体のリハビリをしたり、こうして、精神に疾患を持っている方のリハビリをしたりします」
遠巻きに、作業療法士さんを見ていると、お2人が「こんにちは〜」と挨拶をしてくれた。
なんとも柔和な雰囲気なお2人だ。
精神科はやはり優しい人が多いのだろうか。
患者さんはアロマスプレーの香りにうっとりした様子だったり、
作業療法士さんにずっと何かを話しかけていたり、
患者さん同士で談笑していたりと様々だった。
少し離れたソファに、中年の女性が座っていた。
肩まで伸びた茶髪にブルーのワンピースを着ていた。
女性を見た瞬間、「あぁ」と思った。
よくわからないけれど、
最後に会ったAの雰囲気と似ていた。
Aはなんだったのかな…。
ふと、Aと最後に対面で交わした会話を思い出した。
「ある人に伝えたいことがあるんだよ。ずっと何を言おうか頭で考えているんだ」
Aはいつも気取った話し方をしていて、その日もそれは変わらなかった。
しかし、今ここにいるワンピースの女性のように、
なんとなく居心地の悪いような、しかし吸い込まれてしまうような雰囲気を纏っていた。
黙って聞かざるおえない雰囲気だった。
Aは外面が良かったが、たまにでっかいトラブルを起こしていることがあった。
おそらくそのトラブルの誰かを言っていたのだろうか。
「よくわからないけど…。ちゃんと言いたいこと言えるといいね」
私が真面目に返したことが意外だったのか、
顔を上げてAは少し笑みを浮かべた。
「そう、そうなんだよ!今回こそはちゃんと伝えなきゃって、ノートに毎日書いてるんだ。何を言うかって」
「そうじゃないよ。Aはどうしてそんな話し方をするの?Aの話し方は言葉と意味が浮いてるんだよ。言葉と意味が合った状態で話さないと」
Aがきょとんとした顔をして俯いた。
「あぁ、そうか、そう、前も人に言われたよ。話し方が嘘くさいって。だって理路整然と話さないと駄目なんだよ。理路整然と話せないやつは終わってるって。終わってるって思われたくなくて、ああ、でも、好きなこと、好きなことを友達に話した時は生き生きしてるって言われたなあ」
しばしの沈黙の後、お風呂の栓を抜いたようにAが話し始めた。
先ほどとは違って、やや支離滅裂とも取れる話し方だった。
しかし、全くもって気取ってはいなかった。
言葉と意味がくっついて話していた。
「そうそう、それだよ、言葉と意味がくっついたよ。できるじゃん、ちゃんと」
普段ならぶっ飛ばされそうな話し方だが、
その時は私もリラックスをして話していた。
Aと私は現実の時間から抜け出て、
どこか深い別世界で繋がったような感覚だった。
「あぁ、これか…」
とても久しぶりにAの穏やかな表情を見た気がした。
そして私も久しぶりに、穏やかな気持ちでAを見たような気がしていた。
しかしそんな経験は裏切られ、
そんな経験は自殺という黒い海に飲まれて行くのだった。
世界はどこまで行っても何も信じられなかった。
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