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ソフトシェルクラブ。

「よくも、あんなつまらない話を長時間、
聞いていられるわね。」

にべもなく言い放った叔母の表情は、
感心するような呆れているようは
面持ちで私は面食らった。

「え?チイコさんは叔母さんの長いお友達でしょ?そりゃ話を聞くし、それなりに楽しかったよ。」

チイコさんというのは叔母が結婚して渡米した先で知り合って以来友人の日本人女性で、当時40代の叔母より10歳ほど年上だった。

私が大学一年生の夏休み。
アメリカ在住の叔母が彼女の妹にあたる
私の母に、叔母の住むテキサスに旅行して羽を伸ばしなさいという連絡が来た。
当時の母は幼い弟の世話がいそがしいことを理由に、アメリカ行きのチケットを娘の私に譲ったのが、私の初渡米のきっかけになった。

18歳当時の私が沖縄を出るのは、中学時代の九州への修学旅行以来だ。

那覇空港から羽田、羽田からリムジンバスで成田空港、成田空港からロサンゼルス空港、そしてダラス空港から目的地のテキサス…。

「行き」だけで長い渡航、しかも一人旅は初めての私がテキサスに行ったのは、今のように携帯電話が一般的に普及していない1994年だった。

叔母はテキサスのウッドランドという閑静な住宅街に、日本人の叔父と住んでいた。
彼らは石油関連のビジネスで小さな会社を経営していて彼らの家には年中、叔父の商社時代の友人がゲストとして訪れる。

18歳当時、学生時代の夏休み一ヶ月を叔母の家で過ごすことになった私ももれなく、
叔母夫妻の家に遊びにくる沢山のゲストと
おしゃべりするようになった。

ほとんどのゲストが日本人だったので、
英語が出来ない私も構える事なく彼らの輪に打ち解け、大人たちの仕事の話に耳を傾けていた。

テキサスの叔母の家でニ週間ほど過ごした頃、
叔母夫妻は急な営業でカナダに出張に行くことになった。

その時、私のお世話を指名されたのが、
叔母の友人で日本人女性のチイコさんだ。

チイコさんは艶やかな黒髪をボブカットにした、
とてもスレンダーな女性だった。
アメリカ人男性と結婚した縁でテキサスで産み育てたふたりの息子は、どちらも結婚して独立しているという。

叔母たち不在の5日間ほどの間、チイコさんは
毎日のように家を訪ねて来て彼女の得意な手芸に
二人で精を出すことになった。

彼女といろいろ話し合った結果、
家庭科でよい成績をもらったことがない私にも作れるような簡単なお洋服作りを彼女は提案してくれた。

まず材料を買いにホームセンターに行き、
3$くらいの無地のスウェットシャツを買う。
さらに大きな花柄が描かれた綺麗な布を、
何フィートか購入する。

私はチイコさんの指示通りスウェットの前見ごろを裁断して、カーディガンのような羽織り物にする。
それから花柄の描かれた生地を花の輪郭を生かすようにハサミで切り取り、裁断した部分にコラージュのように花柄の生地を散りばめていく。
コラージュされた生地を鮮やかなラメ入りの、
木工用ボンドで貼り付けたら仕上がりだ。

叔母が出張している間に「針と糸」を使わずに、
花柄のカーディガン数枚、出来上がった。
それまで裁縫に対して苦手意識のあった私は、
チイコさんの手芸技術に驚きながらも彼女との時間を楽しんでいた。

チイコさんはアメリカに渡ってきて20年以上の
ベテラン主婦で家庭での楽しみ方をよく知っている女性だったが、どうやら生粋の白人であるお嫁さんとの関係性で悩まされている様子だった。

お国は違えども家庭の主婦の悩みはさほど変わらない。
結婚を考えたことのない18歳の私にとって、
チイコさんの日常から生まれる家族の悩みは
「カルチャーショック」と迄はいかない迄も、
沖縄では接することのない話だった。

チイコさんの当時の悩みを要約すると…。

アジア人ながら保守的なテキサスに嫁いで
家族のために頑張ってきた。
息子2人にも恵まれ彼らも無事に結婚して、
孫にも恵まれて幸せな日々だが、ただ一つ気に入らないのは息子のアメリカ人の嫁が
「アジア人」である姑の自分を馬鹿にしている
だけじゃなく、まるでベビーシッターのように
こき使うということだった。

興奮すると少し甲高い声になるチイコさんの、
重大な悩みを私は「ふむふむ」とか「それは、チイコさんも大変ですね」といった相槌を打ちながら、毎日のように聞いた。

その様子を知っていた叔母がカナダ出張から帰国してから私に。

「よく、あんなしょうもない愚痴を何時間も親身になって聞いていられるわね。私には真似出来ないわ。」

といった感想を述べたのだ。

私は心中、
(そのめんどくさい愚痴をいうチイコさんに、
私を預けたのはあなたたち夫婦じゃないか。)
と思ったのだが、その言葉を飲み込んでチイコさんと2人きりの最後の日に作った料理の話をした。

たった5日間だけ共に時間を過ごした
友人の姪…つまり私に対してチイコさんは
すっかり長年親しんだ親戚のように気持ちを
寄せてくれていた。
叔母が帰国する最後のランチは、
『チイコスペシャルスープ』をご馳走したいから
一緒に食材を買いに行きましょう!
と車で一時間ほどの所にあるベトナム食材店に
行った。

そこには沢山の海産物と新鮮な野菜が売られている、マルシェのようなマーケットだった。

そこで彼女は「ソフトシェルクラブ(甲羅がやわらかい蟹)」を20杯ほど購入。
続けて手のひらに収まるくらいのジャガイモも、
カニと同じくらいの数だけ購入して車の荷台に詰め込んだ。

叔母宅のアイランドキッチンに買ってきた食材を広げて下ごしらえをする。
カレー用の大きな鍋にソフトシェルクラブとジャガイモを投入し水をなみなみと注いで火をかける。
具材の全てがグツグツと煮え始めた頃に、
チリペッパーやオレガノをはじめとするスパイスのいくつかを放り込んでさらに煮込む。

彼女が「リビングにニュースペーパーをたくさん、敷き詰めるのよ!」というので、一畳分くらいのスペースに新聞紙を重ねるようにおく。

チイコさんは茹で上がったカニやジャガイモをお湯切りして、新聞紙の上にゴロゴロ広げていく。

私は「チイコスペシャル」のスープで茹で上がったソフトシェルにかぶりつきながら、つけ合わせに茹でたジャガイモにバターをたっぷりつけて頬張る。
チイコさんもその細い体には似つかわしくないほどの食欲で、彼女自身の手料理を平らげた。

叔母にその話をすると
「チイコは、スパイス料理が好きだからね。」
と言って、私が彼女と過ごした日々が
退屈なものじゃなかったことに安堵した様子だった。

あれから約三十年経った今、あの料理を日本で
再生しようという気持ちにならないのは、決して料理が美味しくなかったからではない。

おそらくあの「味」は、叔母やチイコさんというアメリカで出会ったアジア人女性の悲喜交々が
スパイスとして効いているからこそ、ダイナミックで美味しかったのだ。


人生には時に「再現」しようのない、
料理の味がある。


それを割と人生の早いうちに経験できたのは、
アメリカに渡った叔母のおかげだと今でも、
感謝している。


テキサス在住叔母のキッチンにて(1994年)




#元気をもらったあの食事

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