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 幼い頃拾い上げた真っ白な羽根。大人になった俺の手のひらほどの長さがあるそれは、夏の匂いを思い出させる。
 蝉の声、陽炎、太陽、そして海。
 歪んだ緑と青に降り立ったあいつのことを俺は今でも忘れることができない。

 もうとっくに俺は大人になって、窮屈なビルの街で隙間を探して泳ぐ魚の様な生活を送っていた。ありきたりのスーツを着て、満員電車に乗る。くたびれた毎日。かといって逃げ出す勇気もない毎日。けれども、こんな俺にも人とは違う経験を持っていた。
 それがこの羽根だ。
 この大きな羽根を見る度に、あの思い出は本当にあったのだと、そう思わせてくれる。幼い俺が見た幻なんかじゃないってこと。
 そう、それは俺がまだ中学生の頃の話だ。

 文字通りの炎天下。田舎の祖父母の家に預けられた俺は家の縁側で溶けるように寝転がっていた。日陰のこの場所はまだ床が冷たい。かすかに俺の沸騰寸前の体温を下げてくれるような気がしたのだ。時折氷が溶けて、目の前の麦茶が注がれたグラスがからりと音をたてた。グラスに付いた露や流れる雲をなにかに例えたりしながら、時間を浪費していた。こんな時間は嫌いではなかった。そっとしておいてもらえるこの時間が何より楽だったのかもしれない。誰かと話すことは、自分が何者かを問われている気がして苦手なのだ。俺はまだ何者にもなれない子供だった。
 ふと雲が流れていってしまった空を見上げる。
 目を疑った。
 鳥ではない。あれ程大きな鳥を見たことはなかった。ただ白い。太陽の光を十二分に浴びながら、ナニかは落ちてきた。その白と反射した光を俺ははっきり覚えている。
 気がつくと、身体は勝手に動き、その何かを追いかけて走り出していた。

 落ちたのは近所の人気が殆どない浜辺だった。すぐ近くにとても美しい浜辺を持つビーチがあるため、岩肌がゴツゴツしているここは全く人気がないのだ。そんな浜辺の岩と岩の間にそのナニかは落ちてきた。足元に鳥のものとは思えないほどの大きな羽根が転がっており、俺は真っ白なそれを思わず拾い上げた。ほぼ重さを感じないまるで雲のような羽根だった。目線をナニかに戻すと、それは微かに動いていた。確かに生きている。
「お前は一体」
 そのナニかは少女の形をしていて、先程の羽根のようにたおやかなその身体を起き上がらせた。伸びをする。それと同時に背中についていた大きな羽も大きく開いた。長い真っ黒な少しウェーブした髪が、真っ白な半袖のワンピースとともに潮風にたなびいた。かつて最も美しい白雪姫は雪の白、血の赤、黒壇の黒をもって生まれたが、この少女は赤を持っていない。開いた目も黒色で、モノクロしかもっていない。しかし、後ろに見える真っ青な海と空を背負うその情景は鮮明に覚えている。見たこともない白雪姫よりもこの光景は素晴らしく美しいと感じたのだ。まさに青を背負った天使だった。
 開かれた瞳がこちらをちらりと見つめた。何秒たったかわからない。永遠とも一瞬とも思えるその瞬間。彼女は不思議そうに首をかしげた。太陽の照りつける光とは真逆な、ふわりとした爽やかな風が吹いた。見ないふりをすべきだったのかもしれない。しかし、真っ黒な瞳から目が離せない。動けずにいる俺に向かって彼女はゆっくりと歩を進めた。足跡が砂浜に残った。折れそうな細い腕が俺の目の前に伸ばされた。そして顔の前で手を降っている。俺が見えているのかを確認しているようだった。
 きっと彼女は見えてはいけない存在なのだ。反応できない俺に安心したのか、彼女はテオを下ろす。安心した目線が俺の手に移った。そして顔色が真っ青になる。大きな大きな彼女の真っ白な羽根。俺はしっかりとそれを持っていた。
「見えているのか」
 初めて聞いた彼女の声は思ったよりも低く、不思議な魅力のある声をしていた。
「見えては行けないのか?」
「あたりまえだ。我々が人に姿を見せるのは死の直前と決まっている。なぜお前には見えるのだ」
 絹のような長い髪を彼女はあまりにも粗雑に掻きむしった。
 彼女いわく、しばらく人の世界を見るために降りてきたものの、人に見えてしまう状態で降りてきてしまったらしい。彼女はぶつぶつと誰かに文句を言っていた。その術をかけてくれた相手であろう。地上から元の場所に戻るまで、しばらく時間がかかるらしい。
「そんな立派な羽があるなら飛んで帰ればいいだろ」
「どれだけの体力を使うと思ってるんだ。しかも、下りじゃない上りだ。少し休まないと途中で落ちてしまう。少年、私のことは他言無用だ。他言すればお前の寿命を半分にしてやる」
「脅しじゃねえか」
 彼女は諦めて岩と岩の間にたち、軽やかに一回転した。ワンピースの裾がひらりと舞う。するとポンという軽やかな音とともにふかふかのベッドとクッションが現れた。あまりにお現実離れしていることが次々と起こり、俺の頭はショートしつつあり、この光景をすんなりと受け入れていた。
「少年、私は人の営みを知りたい。何か面白いものをもってこい」
 彼女は横柄な態度で俺に支持を出し、クッションに飛び込んだ。戻ってきたら起こせとだけ告げて彼女は静かに寝息をたてた。軽くため息をつき、俺は町に向かって歩き出した。
 
「なんだこれは」
 少しして俺が戻ると、彼女は意外にも起きていた。目の前にそれを置くと、彼女は興味深そうにそれを見つめた。
「ラムネだ」
「らむね」
 親から聞いた言葉を反芻しただけのように、彼女は言った。説明するのも億劫だったので、俺はプラスチック製の名前を知らない道具を瓶から外し、ビー玉を勢いよく押し込んだ。爽やかな音がなり、ボトルの中のラムネがしゅわしゅわと音を立てた。彼女に飲むように瓶を渡すと、眉間にシワを少し寄せて口をつけた。しかしすぐに口を離してしまう。
「痛いぞこの飲み物は!」
「もっとゆっくり飲めよ」
 怯えながらもだんだんなれてきたのか、騒がしさは少なくなり、眉のシワが無くなっていった。
「なるほど、これは夏を閉じ込めた飲み物なのだな、よい感性を持っているな」
 何やら哲学的なことをブツブツと呟きながら、彼女は小さなノートに書き込んでいた。からんからんと中のビー玉が音を立てる。彼女は不思議そうに中を覗く。俺は彼女の瓶を手に取り、海水ですすいで中のビー玉を取り出した。感嘆の声を上げて、手のひらに乗せる。
「これが夏か」
「うーん、それはどうだろう」
 俺は苦笑いをしながら、楽しそうにビー玉で遊ぶ彼女を見つめていた。
 このラムネの交流から、この夏は彼女に振り回されることになった。
「げえむ? とはなんだ?」
「何か文化を記した書物をもってこい」
 などなど。俺は図書館に家に、時には駄菓子屋や銭湯にまで走り回った。普通に話している分にはただ横暴な羽の生えた美しい女性に思われるが、分厚い本をあっという間に読み上げ右から左に山を移している様子や、些細なことに感動している様子はやはり人間離れしていた。しかしそれ相応に彼女の知識はすごかった。数万年前に起こった出来事をまるで目の前で起こっているかのように臨場感たっぷりに話し、遠く離れた異国の文化についても話してくれた。
「人と話して、色々なことを知ることができるのは楽しいことだな。今までは人に見られることなく視察していたから………まあ実際に見て歩けないことがこれほどまでに大変であるなんて知らなかったが」
 たまに頭を抱えながら彼女は悪態をつくのであった。だが、その横顔は波風に煽られあまりにも美しく、そして儚く感じた。一秒も経たずに、海の向こうかはたまた空の彼方に連れ去られそうな気がするのだ。見た目と中身がちぐはぐな不思議な人だ。手のひらで彼女はいつかのビー玉を転がして遊ぶ。
「そういえば少年はずっとここにいるのか?」
「いや、夏の間だけだ」
 いざ口に出してみると、現実を手にとった様な感覚に苛まれた。なぜか、この空間は、彼女はずっとそばにあるような気がしていたのだ。彼女はいつ空に帰ってしまうかわからない。しばらく留まっていたとしても俺は夏休みが終われば帰る場所がある。
 この事実がとんでもなく恐ろしいことのように感じられた。得体のしれない終わりが近づいてきているという実感。遠くにあると思われていたそれは、俺達のすぐそばに転がっていた。
「そうか。夏ももう終わってしまうからな」
 彼女はそれきりなにも言わず、ただビー玉を転がしていた。

 それから五日後、彼女は唐突に俺に告げた。
「そろそろ帰るとするか」
 彼女は勢いよく立ち上がった。一回転すると、周りにあったベッドのたぐいが全て消えて無くなってしまった。そして初めて出会ったときのように、海に背を向けて大きく羽を広げた。
「快調だな、これで長旅も大丈夫そうだ」
 そのままくるりと海に向かって彼女は歩き出した。俺は突然のことに慌てて立ち上がる。彼女は蓋体こちらを見た。波がこちらに押し寄せる。
「世話になったな、こんなに人と交流して、色々なことを知ることが出来たのはとても楽しい経験だった」
「おい………」
 俺が相当驚いた顔をしていたのか、彼女は珍しく困った顔をしていた。少し思案してから何かを取り出した。それはあの日のビー玉だった。
「この夏はここにある。忘れないぞ」
 そして波が引くと同時に彼女は飛び去っていった。

 あの夏の思い出は今も忘れられない。時折、幻だったのではないかと思う時には、あの真っ白な羽根ゆっくりと撫でた。俺にとってのあの夏はここにあった。こんな風に思い返す度にあの不思議な日々が更に恋しくなるのだ。そしてある夏の日、俺はかつて祖父母の家があった町に向かった。きっかけは全く覚えていない。あの日の想いが決して幻想でも夢でもないことを、あの思い出の欠片を欲していたのかもしれない。
 いつも彼女と会っていた、あの浜辺につくと、ゴツゴツした岩場を超えていつも彼女と話していた場所にたどり着いた。相変わらず人っ気はなく、波の音だけが静かに聞こえていた。昼過ぎから車でやってきたのであたりはもう夕暮れ時だ。暗くなっていく水平線をただ眺めていた。暗いのか明るいのかわからない、波の音しか聞こえないそんな不思議な空間で、俺は夢と現が曖昧になる感覚に陥った。長い時間運転していたので疲れもあったのだろう。
 ぼんやりとするその空間で、俺は一瞬彼女の大きな羽の影を見た気がした。
 一度瞼を閉じ、再び開く。
 大きな羽、あの頃と変わらない長い緩くウェーブした髪、そして白いワンピースが夕日の色を吸い込む。浅瀬の海に踝まで浸かった足には、波が柔らかく打ち付けていた。
「久しいな少年」
 彼女はそこにいた。
「どうして………俺は死ぬのか」
「バカを言うな、ここは夢だ。まあ確かにここから帰らなければそういうことになるが……」
 彼女は少し困ったような笑顔でそういった。波打ち際はちょうど俺たちの間に押し寄せていた。心地の良い音が響く。
「お前が私の羽根を持っていったのだな少年、私のこれを含めて微かな縁がつながったのだ」
 そう言って彼女はキラキラと光るビー玉を指で摘んだ。夕日が反射し、ラムネ瓶を閉じていただけのものとは思えないほどの不思議な魅力を持っている。それとは反対に彼女の羽を持つ不思議な影はゆらゆらと揺れていた。
「あなたは変わらないな」
「まあ、天使だからな。それほど変わるものではない」
 彼女は腕を組み、再度俺の方をみて、慈しむように言った。
「さあ、ここにずっといてはいけない。そろそろ帰るのだ」
 波が更にこちら側に押し寄せる。日もさらに暮れ、あたりに暗さが増した。そして彼女はあの日のようにこちらに背を向けて羽を広げた。
「さらばだ少年、あの日の夏はまだこの手にある」
 俺のつま先に波が触れた。あの日の、彼女と別れた日のシーンがフラッシュバックする。
 気がつくと、とっさに俺は立ち上がり、海の中を走り出した。何故か彼女は海面が腰の高さまである更に置くまで進んでいた。じゃぶじゃぶと水圧を乗り越えて、俺はどんどん進んでいく。そしてようやく彼女を捕まえた。
「俺も連れて行ってくれ、戻れなくても構わないから」
 彼女の表情は見えない。
「だめだ少年、私は君の手をとることは出来ないよ」
 ゆっくり彼女の胸の前に手を回していた俺の手首を彼女は掴んで解いた。俺も力を入れることは出来なかった。
「この夢は奇跡だ。本当はあるべきではなかったのかもしてないが……… しかし私はこれを伝えられる」
 そして彼女は俺へ向き直り、両手を握った。
「生きろ少年、私達の夏は直ぐ側にある。辛いことを乗り越えれば、きっと私が迎えにいくから………あの夏の続きを紡ごう」
 夕日が落ち真っ暗になる。冷たい海の水温を感じる。俺が瞼を閉じ、再び開くと沈む夕日を眺めていた。
「夢か」
 疲れていて、きっと少しうとうとしてしまっていたのだろう。そう思い立ち上がると、履いていたズボンの裾が濡れていた。
波打ち際はまだ遠いのに。

夕日が沈んでいくさまを見ながら、どうかこの幻が冷めないことをただ祈った。
                                  Fin.



 オトノトショカンシリーズ

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