小説: 『心を折りたたむ。タンスからはみ出さないように。』

僕が覚えている一番古い記憶は、幼児が階段を登らないようにつけた柵を乗り越えて階段を上がり切る直前、足を踏み外して転がり落ちた時だ。
痛みだって、その後当然泣いたことだって忘れてしまったけれど、体が制御できなくてただ落ちることしかできない自分を覚えている。
長く、ゆっくり回り続ける風景をこの目は覚えている。

無謀な事故で死なずに済んだ僕はそれなりに大きくなって、それなりに生きていけるようになった。
今日も動く電車の中で、まだ起きたくないと訴える目をこすりながらゆらゆらとどこかに運ばれていく。
電車の壁はなかなかうるさくできていて、「英語を勉強しなさい」だの「このマンションを買いなさい」だの、「転職活動を始めなさい」だの、僕に関係のない誰かがしつこく僕の生活を変えようとしてくる。
うるさい、どっかいけと言いたくはなるのだが壁は壁であり、言ったところで反響した声と冷たい視線が返ってくるだけだ。
仕方がないから、僕は目線を落として誰かの靴を眺めて10分20分30分を耐え忍んでいる。
僕ほど我慢強いやつはそういないだろうね。

いざ目的地に着かされると、昨日とほぼ同じ、まるで間違い探しのような時間が始まる。
(正しくは朝から始まっていた。)
僕は与えられたものを与えられた能力でこなし、たまにトイレに行く。
休憩時間には、僕と似たようなことをしている隣の人と世界中で何回も使われただろう話題をもう1回繰り返す。
彼もこれが何番煎じか数えきれない会話であることは分かっているのだろうか。
もちろんそれを聞いてはいけないことは僕だって知っている。
休憩が終われば、歴史のどこにも記録されないような僕の成果を、眠い気持ちを押さえつけながら、せめて見てくれだけでも良いように並べていく。
途中、与えられているものが間違っているんじゃないかと思うこともなくはないが、何かを間違っていると言うのであれば僕は代わりに正しい何かを差し出さなければならない。
すでにある正解からはみ出してうまくいった世界なんて僕は知らない。
だからただ、与えられたものをこなして決められた通りに並べて、たまにトイレに行く。

ありがたいことに時間は止まらず進むので、気づいたら家に帰り着いている。
焼いた魚と味噌汁が食べられた夜はとても満足感が高い。
こんな日が続けば良いのに、とは思うけれど毎日焼き魚は流石に飽きるからしょうがない。

明日、電車に乗るための服がなければ洗濯機を回す。
乾燥機付きのやつを買って本当によかったと心から思う。
時間はあっという間で、寝るための準備が始まって、終わっていく。
明日の眠気を抑えるために今日もベッドと掛け布団の間に体を滑り込ませる。
まだ眠たくないと訴える目を枕にうずめて、今日を終わりにする。

洗濯物はまだたためていない。

でも、もうおやすみ。

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