酸欠

20240228

1つ言い訳をするとすれば、世の中があまりに便利すぎるんだ。
僕らは狭くて孤独でつまらないはずの一人暮らしの1Kの中から、インターネットに蓄積された知識やエンタメに時間を問わず接続できるようになっている。
僕らはわざわざつまらない時間を過ごすことができなくて、勉強をしたり、性欲を満たしたり、くだらない動画をみて、広告に頭を焼かれていく。

そうだ、選択的にしかつまらないことが出来なくなったんだ。
これは僕らのなんでもない日常生活を、相対的につまらなくしているに違いない。
快楽物質の怖いところは、その快楽に適応出来てしまう能力を僕らが持っていることだ。
1度ニンニクを増してしまえば、ニンニク抜きのラーメンにもう君は戻れず、いつの間にかマシマシを頼むようになるのだ。
なんの話なんだ一体。

新鮮でより刺激的な情報を絶えず与えてくれるデジタルに侵食される形で、限りなく角を落とされたメタバース(理想郷)とドラッグ(中毒性刺激)による実態のない快楽に僕らの生活が飲まれていくことは、避けようのない帰結に思える。

せめてもの考えうる対抗策は2点
① あえてつまらない選択肢を取る
どのみち、より強い快楽は避けようがなく訪れてくるので、なるべく刺激から遠ざかる。
これには周りに置いて行かれる孤独を直視する勇気が必要だ。

② 情報・コンテンツ・技術を創造&発信する側にいる。
消費者でいる限りはねじ込まれる情報の濁流に飲まれ、逆らう体力は減少していく。
情報の生産者(not 非搾取者)でいられれば、自分の価値を保つことが出来るだろう。
これにも産みの痛みから逃げない勇気が必要だ。

これをすることで僕らは統計の中の数字の ”1” から、輪郭と重みをもった ”1人” になれる。
なれるのかもしれない。

20240229

それでも、やはり何か足りない気がするのは、僕の存在を認めてくれる他者の欠如だろうか。
誰かが「何者でなくてもいいよ」と言ってくれたなら、統計の中の数字からもがいて這い上がる必要もなしに、僕は固有の人間として生きていくことができる。
そこにはきっと僕らが求めてやまない熱がある。

1年前に曲の発表をやめてしまった僕の好きな歌手が書いたこんな歌詞を紹介したい。

I don’t wanna take the world for granted
While I’m still trying to understand it
The more I live I am convinced
Everybody just wants to be in love
 (Love & War in Your Twenties / Jordy Searcy)

友情も恋愛も隣人愛も含めて、ただ僕らは愛されたいだけだ。

だからちゃんと伝えていきたい。
陳腐な言葉だけど、
僕は君を愛しています。
色んな角度からね。

追伸

今はとても小説が書けそうにない。
当然読めてもいない。
仕事・転職・政治・社会の構造・未来・結婚について考えることが僕の頭の中を順番で掻き乱していく。
とても現実的な事象に体のエネルギーが使われる時期で、文章の中の嘘と真実の世界に浸る能力を持てていない。
早く、殻にこもりすぎた&殻を破りすぎたコンビを海に連れていってあげたいし、猫と少年を次の彼らに繋げてあげたい。

やりたい気持ちは、火種としてちゃんと残っているけれど、今は他の可燃物がよく燃え上がっているから、小説のための時間と酸素と燃料がない。
これを「飽き」と呼ぶのであれば、僕は飽き性と呼ばれても仕方がない。
よくあることだから。
悔しいが、これが僕であり、こんな自分もまあ悪くないと思っている。

また1つ幸せが増えた気がする。


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