一言で言えないから小説を書いているんです、あと妖怪。
1.秋葉原通り魔事件
2008年6月に東京、秋葉原で起きた通り魔事件。
自動車会社に派遣社員として勤めていた20代の男性が、トラックで秋葉原の赤信号の交差点に突入、さらにナイフで襲いかかった事件だった。
この事件では、「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でも良かった」という言葉が波紋を呼んだ。
容疑者の個人的な背景として、進学をめぐる挫折や、繰り返された転職、そしてネットへの極端な依存ぶりが日々報道された。
その現象を、東大准教授だった宇野重規は「事件をいささか紋切り型に、個人的な事情によって説明しようという傾向が少なからず見られた」と批判した。
2.紋切り型ニュース
私は、この「紋切り型のニュース」という部分に着目したい。
事件が起きたときに、「アニメオタクで内向的だったから…」と批判された宮崎勉事件も然り、容疑者が事件を起こすに至った説明が紋切り型で語られることは多い。
これに対して、言論人・文筆家は「人の心理や背景は、一言で分かりやすく語ることはできないのに、"分かったつもりになる"説明で片付けるのは乱暴だ」と批判する。
そして、児童監禁事件の容疑者心理を説明するニュースの紋切り型の口調に「そんな分かったつもりになるためだけの、紋切り型の雑な説明をするな」と、『十三階段』のような丁寧に400ページほどの書籍の形で真実に迫ろうとする。
村上春樹のオウム容疑者、被害者双方に丹念にインタビューした『約束された場所で』も、この系譜に連なる本だと言える。
確かに一理ある。
しかし、紋切り型の説明がそんなに悪いことなのだろうか。
本稿の問いはここにある。
秋葉原の事件が起きた時に、我々が求めるのは「なぜ、こんな事件が起こったのか」という原因だろう。
例えば「それは容疑者が社会に不満を持っていたからだ」みたいな、クリアカットな説明がされると、安心する。
逆に昨日までニコニコと仏のようだった隣人が突然、何の原因もなく発狂して襲いかかってきたら怖くてたまらない。
一緒に暮らしていて、わかったつもりでいた恋人が突然、自分の首を絞めてきたら恐ろしい。
だからこそ、「恨みがあったから」「お金がなかったから」と分かりやすい説明に回収したくなる。本当は現実は、それほど単純ではなかったとしても。単純化してわかったつもりになる。
病気で高熱が出て「これは何か重大な病気なんじゃないか」と、絶望している時に、「ただのインフルエンザですよ」と告げられてホッとした経験がある。
これは名前をつけることの安心感だ。
症状は何も変わっていないけれど、名前がついた途端「ああ、インフルエンザなら1週間も寝ていれば体調は回復する」と、過去の経験に照らし合わせて胸を撫で下ろす。
原因不明の不安を抱えるのに耐えきれないから、医者に病気の名前をつけてもらいに行くし、占い師に縋るのが人情だ。
昔は、病はもののけの仕業になった。
平安京の落雷を菅原道真の怨霊のせいにしたり、疫病を妖怪のせいにした。
それは、当時の知識の範囲内で「合理的」な説明を真剣に考えた結果だ。
現在の我々が、科学に縋り、医療に縋るように。
昔も今も、その時代の知識の範囲内でできるだけ「合理的」な説明を求めて安心しようとする。
3.一言で言えないから小説を書いているんです
だが、合理的でわかったつもりになる説明を聞いているとき、そこには「分かりやすくするために切り捨てられた多くの事象」が存在することを忘れてはならない。
村上龍が400ページを超える小説を仕上げたとき、記者から一言でいうと、この本で伝えたいことは何かと問われた。
「一言で伝えられるなら、400ページも時間と気力をここまで真剣に注げなかった。一言で伝えられないことを伝えたいから、小説を書いているんです」と彼は答えた。
焦って「さっさと結論だけ教えて」と叫びたくなる時こそ、その言葉を忘れずにいたい。
2022.11.04
とは言いつつ、ちょっと迷って送信したLINEに既読がつかない時間ほど「さっさと返信してくれ」と思う瞬間はないですよね。
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