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感動の才能

有限さと無限さについて。

当たり前の話をしよう。
人生を楽しくするコツは、好奇心を持つ事だ。

例えば、大学の数学の授業をつまらなそうに頬杖をついて聴くことはたやすい。
小学校の整数の概念から、高校数学の微積までを理解していなければ、容易に「つまらない」と断罪できる。
たとえ1000年解けないと言われたABC予想を解明した望月教授の、世界初公開のABCよそうの予想の解法についての講義ですらその価値を理解せずに眠ることは容易い。

その一方で、教授の講義に涙ぐみ、ガリガリとノートを取ることは難しい。「この講義で人生が変わりました」と感動に声を振るわせるのは、教授よりもむしろ、生徒の側にそれを受け止めるだけの知識や感性があるかどうかで決まる。

以上は、高校の数学の授業中に涙ぐんだ同級生の実話だ。
彼はその1年後、数学オリンピックの日本代表としてSEGで直前対策をした後、フランスの本選に旅立った。東大模試のたびに、一桁を取り続け、現在は数学科にいる。
ちなみに、そんな彼でもついに東大模試の数学で1位を取れなかったことが、今でも印象に残っている。
入試の1年前から合格最低点を超え続けていた彼が、それでも東大模試を受け続けたのは、顔も知らぬ1位を超えたかったからだったと、高校3年生の冬の最後の模試で、2位だった成績表を泣き笑いで見せてからながら呟いたことを今でも覚えている。

ちなみに鉄緑会を追放されるほどの落ちこぼれだった私は、その時期でもまだ過去問演習を繰り返しても早慶の合格点に30点以上届かなかったし、その1ヶ月がの入試では全部落ちて晴れてニートになったがらそれはまた別の話だ。

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話を戻そう。
美術や音楽や勉強などすべての物事は、感動するために気が遠くなるような努力と才能を要求する。

しかし、もしどの分野でも感動できないとしたら、原始的なドーパミン快楽中枢を刺激するAVやセックス 、謀略シーン、パチンコやその原理を応用したSNSだけしか楽しいと思えなくなってしまう。

なんだかそれは寂しい。
だから、感動するために努力と才能を傾ける行為に、美しいと思うのだろう。

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その一方で、あらゆる時間術の本の意見を集約すると次のようになる。

ビル・ゲイツがパイロットに「人生の時間をうまく使う方法はなんですか?」と問いかけられた。

ビルは次のように答えたとされる。
「まず、一生でやりたい事を25個書き出しなさい。
次に、それを順番に並べて、1〜5番を残して、そのほかをすべて諦めなさい。」

ここでのポイントは、やるべきことではなく、やらないことを先に決めるという発想の転換だ。

例えば、大学時代に資格試験の勉強に時間を溶かす人は多い。
しかし(大学のランクにもよるが)世界でも目の前の教授が1番の権威である分野の研究室に所属しながら、その学びを吸収する時間を代償として捨てているとしたら、資格試験の時間はもったいないと言える。

(資格試験と時間の使い方についての僕の偏見は別のnoteにも書いたので、もし気になれば読んで欲しい)

そのように、時間術では「興味を削って、一部に集中すること」の大切さを説いている。

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ここに、人生を楽しむなら
・興味を持つのは才能だ
・興味を絞って、捨てることが大切
という2つの価値観の矛盾が起こる。

私は、ここでどう生きれば良いのか迷ってしまっている。

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