見出し画像

進研ゼミ受験コースみたいに、幸せになる方法コースもやってくれよ。受講したいよ。

10代後半、全国3位を取って進学校に行った。中退してニートになった。

「幸せになるにはキャリアを駆け上がるぜ」というマッチョな考え方についていけなくなって心と体を壊した。

その後に、日向ぼっこする猫みたいにひだまりでお昼寝する3年間を過ごしてから社会のレールの隅っこにそっと戻った。

戻った時には、高校の時の同級生たちは海外に行っていたり名前の有名な企業でバリバリ働いていたりして、背中すら見えなくなっていた。

それまでの人生は「流される同じ学校に進んだ人と同じことをしている」うちに人格形成期である思春期の10代の大半を過ごしてきたのである。

ロールモデルもなく、自分と似たキャリアの人もいなくなって目が覚めたら世界に1人取り残された気持ちになっていた。

そんな寂しさを抱えながら、大学生活を送り、社会人になって最近ようやく落ち着いたその頃の思考を振り返れるようになってきたので、言語化した文章です。

Twitterの下書きに、140文字のかたまりごとに書いていったら、とっても文章が長くなってしまいました。無理に読んでほしいものでもないので、読んでいてなんか読み進めたいと思ったら、読んで下さい。

***

人生のどこかで一度体調を崩した経験がある人は、あまり予定を詰め込まなくなる気がする。

コンサルタントの山口周は「20代くらいまでの人生の初期においては時間のみ平等に与えられた資源で、それをどこに投資するかによって30代以降のレバレッジ(伸び率)が変わってくる」という趣旨の発言をしている。高校生くらいまで、わりとそれに則った時間の使い方をしていた。

例えば休日が土日空いているとすると、1日「何もしない日」をつくるのは、投資の考え方を時間に当てはめて生きていると「無駄な1日」となる。その日を美術館に行って、観た絵について完成のストックを溜めたりするなど、なんらかのリターンのある行動を取るのが最善手となる。

よりその考え方を押し進めるなら、1日という目の粗い単位ではなく、移動時間まで加味した上で1日の可動可能な時間をすべて使い切ることが「理想的な時間の投資」となる。

例えば、何もせずに1日布団の上で過ごしたとする。時間を投資として考えるなら、「(睡眠時間を除いた)16時間の可処分なリソースを、リターンの皆無な使い方をした」と評価される。ライバルとなる同程度の学歴や年齢の人たちが、その時間に英語の勉強をしたり、資格試験の勉強を進めたとすると、その人たちと同じレールの上で出世競争をするなら遅れをとっていくことになる。

だからこそ、周りに遅れを取らないためにも、競走馬のように「TOEICは満点近くを取れたか。そうしたら今度はその英語力を使って仕事でビジネス経験を積む部署に移動することで、キャリアとして転職の展望を広げよう。英語をビジネスレベルで使えると、同じ仕事をしていても転職の際に100〜200万ほど年収レンジを上げることができる」など、と考えて走り続けることになる。

これが、時間を資本として考えた時の罠だ。しかし、自分の偏見もあるのだろうが、偏差値75程度の進学校を卒業して、ある程度の名の通った大学で上位の成績(例えば東大で入学時に英語の成績が上位10%の成績だと特別クラスに割り当てられるが、そのような人たちなど)になった同級生たちは、わりと自然にそのような時間の考え方をしていたような印象を受ける。

そのようなクラスターに属している人間関係にとって、就活の先のOB訪問をした時の飲み会とは自分よりも先に人生のキャリアの階段を登っているOBの先輩などから、「どんなキャリアラダーを登って、時間の使い方をしたらそこに行けたのか」というものをヒアリングするためのものだった。

例えば、戦略コンサルに行った先輩は、「学生時代にデータサイエンスを専攻しつつインターンで時給3,000円ほどもらいながらコンサル事務所で働き、BIG4に就職。30歳前後に会社のお金でMBAを取得、副業を始めて、30代で副業年収が本業を超えて独立。」のような生きた事例の先輩と対面して、話を聞くごとに「なるほど、この程度なら自分にもできそう」「この人は同じ学校でも別格だから真似できない」など学んでいく。

だが、僕は高校の途中で体調とメンタルを崩して中退して3年ニートになった。そのようなレールから外れる経験をすると、時間を投資するという発想から少し距離を取るようになる。

例えば、母校のある先輩は「会社に殺される」と悲鳴をあげながらイーロンマスクのように週7で17時間労働をし続け、ある冬の日に亡くなってしまった。過労だった。体調を崩した後に、そのような先輩の事例を知ると「明日は我が身」と思ってしまう。

残された奥さんと子供は、保険金で働かなくても聞いていけるほどお金が入ったそうだが、働いていた本人は幸せだったのか分からないと思ってしまった。その時に僕が受験勉強にも、大学の学費を稼ぐためのアルバイトにも忙殺されて苦しかったからなおさら。

進学校では効率的な問題の解き方は教わる。しかし幸せになる方法は教えてもらえない。自分で掴むしかない。健康の強さも、人によって違う。「こうすれば勝てる」は生存バイアスがかかっている。幸せそうな先輩までの道程には、無数の途中で夢破れた人々が力尽きて横たわっている。

しかし、OB訪問をして僕らが見ることができるのは、成功して元気な先輩だけだ。途中で夢破れた人は、後輩と会う心の余裕も物理的余裕もない。

もう一つだけ別の例をあげよう。先日、両親が医師で、自分も医師になるために7浪して諦めてコンビニの夜勤をしているOBが自分の人生を語っている動画をYouTubeで見つけた。再生回数は30回ほどだった。

大学のゼミの先生は同じ高校の先輩で、金融庁で働いた後に東大の大学院に入り直して経済を教える大学の教授になった。成功者だ。20代は土日を含めて1日18時間ほど働いていたらしい。

しかし、その同僚のOBは仕事をしすぎてパニック障害になり、現在はFacebookも消し消息が不明だという。成功者にだけ光が当たるが、そうでない場合も数多くある。「死ぬ気で働け、死ななないから」という言葉は嘘だ。

それは死なずに上手くいったバイタリティ溢れる成功者の発言だ。成功すると母校のパンフレットにも載るし、東洋経済などインタビューされることすらある。その発言が切り取られる機会は多い。

しかし、死ぬ気で働いて心や身体を壊した人にヒーローインタビューはない。発言を求められることもない。「老兵は死なず、ただ去るのみ」とは山本五十六の言葉だったか。それになぞらえるなら「敗者は発言を求められず、ただ去るのみ」だ。表舞台から光が当たらないものはなかったことにされる。発言機会なんてYouTubeで深夜の1Rの自宅で収録した30回再生の動画くらいだ。

幸せになりたい。成り方が分からないけど。進研ゼミで、受験コースみたいに、幸せになる方法コースもやってくれよ。受講したいよ。

でも、そんなパッケージ化された幸せみたいなものはないから、、自分の生き方にあった幸せを作るしかない。

幸せになりたいね。にゃーん。
最近、心を許してふわふわ話せる人と会えたりして。そういうのが嬉しいなと思ったりしているんだ。

お相手は、布団至上主義でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?