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語彙力がない子は全ての感嘆表現を「やばい」で済ませる

男の子のいう、「セックスしたい」って射精したいんじゃなくて、認めて欲しかったり、寂しかったり、自己肯定感を満たしたい、をうまく言語化できない結果な気がする。

例えば、語彙力がない子は全ての感嘆表現を「やばい」で済ませる、と少し前にツイッターで話題になった。

蕩けるような告白が受け入れられた幸せも、一緒に食べに行ったガレットが美味しくて舌鼓を打った感動も、膝から崩れ落ちそうな失恋の悲しみも、すべて「やばい」で代替可能だ。

感情の粒度が荒いと、寂しさも、人肌恋しさも、癒されたいも、むらむらした性欲も、自己肯定感が満たされなくて誰かに「頑張ったね」って背中を撫でて認めてほしい気持ちも、全て「セックスしたい」としか感知できない雑なアウトプットになってしまう気がして、なんだか寂しい。

そして、母親が笑顔を見せなかった赤ちゃんは笑顔が少ないように、感情は後天的に学ぶ要素が意外と大きい。

小説を読む醍醐味の一つはそこにある。
登場人物の追体験を通して、感情のひだが増えていく。より細やかな感情の動きが、言語化できて、はじめて「自分にはこんな感情があったんだ」と事後的に知ることがある。

だから、たくさん本を読んで、たくさんの人生経験をして感情の粒度を繊細にしていきたい、と思っていた。

その考えは変わっていない。
でも最近、思うんです。
口が悪いけれど、好きでもない人には、「とりあえず1発やりたい」と乱暴な感情しか持てない時がある。
逆に、好きで好きで仕方がない人のことは傷つけたくなくて、できるだけ繊細に感情の動きを知りたくなる。

感情の粒度が細かくなる瞬間とは、心からその人の気持ちになりたいほど、誰かのことを好きになったときもなのではないかと。

ここまで読んでくれてありがとう。
いつも大好きだよ。愛しています。


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