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見えないものが見えるようになること


2021年の「東京2020」オリパラを考える

思考停止が一番良くない、と言ったりしているくせに、自分では思考停止していることがいくつかありまして。そういうことの多くは、停止させておかないと自分の何かが壊れてしまうような、あと一歩踏み込んだら崖から落ちるギリギリのことだったりするのですが、時間が経って足元が固まってきた気もするので、今日のうちにどうしても考えておきたいことを書きます。

オリパラと聞くと身構える人も多いと思いますが、私がとある仕事を通じて、いま考えることを、さっと書きました。軽い気持ちで読んでほしいです。


先ほど、宇野常寛さんがやっている「遅いインターネット会議」のトークイベントを視聴しました。ゲストは作家の乙武洋匡さん、タイトルは「1年延期になったオリンピックについて、もう1度だけ考え直す」


実は、どういうわけか急に宇野さんの新刊「遅いインターネット」が気になって、コロナ禍前に買っていたのを、ずっと時間をかけて読んでいます。(どういうわけか、というのは、SNSで見たわけでもないのに、なぜかタイトルを知っていて本屋に探しに行って買ったのに、どうやって知ったかを全く思い出せないから)。

この本を読んで考えたことはまた別に書きたいと思っているのですが、最初の2割くらいを読んだだけで「自分は、ハードを諦める代わりに、ソフトパワーに依存しすぎていた」と、気付いたというよりは思い知ってしまって、噛み砕くのに時間がかかっています。SNSをめぐるもやもやしたあれこれに対しても、この本が与えてくれる解はすごく大きいのですが、自分の中に落とし込むよりもずっと速いスピードで、SNSでは次々訳の分からないことが起きていて、それもまたこの本のことを考えるのに時間がかかっている理由です。今日はいろんなところでSNSがブラックアウトしてる(ミネアポリスの事件からの一連で、真っ黒な画像をアップしている)けど、だれかが「ブラックアウトしてないのなんて、広告か日本人だけ!」みたいなことを言うので、もう一気にどっか行っちゃうんですよね。気持ちが。もう日本人っていう言葉がなくなったらいいと思う。


それはともかくとして、この「遅いインターネット会議」はどこかで視聴したいなと思っていて、今日のテーマとゲストは、初めて視聴するには良い機会だったので、参加しました。

オリパラのこと、もうみんな忘れてますよね。たぶん笑
私はパラリンピックのチケット2競技当選しています。楽しみでしたが、個人的な理由でしばらく考えないようにしていました。

トークは、コロナでの延期騒動から、あと1年をどう過ごすかまで、興味深い2時間でした。
最後に乙武さんが「オリパラをやるべきかどうか、その『べき』の理由は立場によって違う、あるいは立場によっては『やらないべき』かもしれない」「自分がどの立ち位置なのか、その立ち位置でどう考えるかが大事」ということを仰っていたので、「自分の立ち位置」と「その立ち位置でオリパラを考える」というのを、やってみようと思います。

まずは「自分の立ち位置」を整理します。


1964年の東京でパラリンピックが行われたこと、知っていますか?

恐らくほとんどの人が知らないと思いますが、今年の1月中旬、東京は豊洲で、1本のドキュメンタリー映画が公開されました。制作は1965年、白黒63分。1964年の東京パラリンピックを映した記録映画です。

私は足掛け5年、このドキュメンタリーを公開するということを、会社の中でもほとんどの人に知られることなくひっそりとやっていました。作品も会社も(なんなら恐らく個人も)特定されてしまうので、5年の間に起きた具体的なことは語れませんが、とにかく私がやったことは、この誰も知らない/忘れられた映画を、もう一度劇場で上映する、ということです。本当は、多くの人に見せる、まで達成しなければいけなかったけど、色んな理由でできませんでした。でも、劇場では上映をして、多くはないけど、いくらかの人には観てもらえました。

この映画については、多少記事も出たし、NHKでも2回くらい紹介してもらったし、ググればさすがに出ると思うので、どういうものか興味がある人はそれを見てください。

パラリンピックのドキュメンタリーなんて世にも珍しいものを上映しようというからには、元々スポーツやパラスポーツに興味があったと思われるかもしれませんが、全く逆です。体育はもちろん嫌い、スポーツ観戦も興味ないどころかどう楽しめばいいのか分からず苦痛、最後に見たのは小学生の頃のアテネオリンピック、(あと大好きなTake Thatがパフォーマンスしたロンドン五輪の閉会式だけ)、パラリンピックも勿論見たことない、そんな人間です。そんな人間がある日突然上司から「実は1964年の東京パラリンピックの映画ってのがあって、2020も決まったし、上映したらどうかなと思うんだけど、どう?」くらいの雑な振り方をされて、その後5年も本業とは全く別のところで動くことになったのです。でもそれは決して押し付けではなく、上映したい・すべきと思って企画書を最初に書いて出したのは、紛れもなく私です。予算が下りるかどうかも分からない中で、各方面の団体に電話をかけまくったのも私です。

これは、この映画は、上映をしてみんなに見てもらうべきだと思ったからです。

スポーツにもオリパラにも興味のない私が、なぜそう思ったのか。
それは、私がスポーツにもオリンピックにもパラリンピックにも興味がなかったからです。


素人未満、素人になる

1時間ちょっとのこの映画には、64年の東京パラに出場した選手たちのインタビューが収められています。当時の大会は今のように多様ではなくて、傷痍軍人のリハビリに端を発した大会の延長戦だったため、基本的には下半身麻痺・車イスの選手のみが参加する大会でした。怪我をした背景は様々ですが、結婚の約束を自ら破棄したとか、子供と離れて暮らすとか、日本の選手たちからは、自分たちが表舞台に出るなんてとんでもないという考えが見て取れます。一方で、海外の選手は仕事をして税金を納めている、競技も進んでやっているし、何より明るい。その違いが対照的に映し出された作品です。

64年東京パラの映像は記録上6本しかないとされていて、しかも当時は2本しか見つかっていなかったので歴史的な価値も高く、64年当時の東京の資料としても貴重なものです。小学校の運動会みたいなパラリンピックの様子や、東京の秋空を縦断する首都高など、見る人が見たら感銘するポイントは多かったと思います。しかし、私の中に残ったのは、今よりずっと性能の悪い車いすを重そうに回す女性の手でした。

映画を見た次の日から、明らかに視界が変わりました。
車いすが、バリアフリーのスロープが、エレベーターの中の点字が、目に入るようになりました。2020オリパラのロゴも。
今まで、見えていなかったものが、見えるようになりました。それまで気付かないふりをしているだけだと思い込んでいましたが、違いました。本当に見えていなかったのです。

私のような人は多いだろうと思いました。パラリンピック/バリアフリー/多様性 素人未満。多様性とかバリアフリーとか、考えてる。大事だと思ってる。訊かれたら何を"すべきでないか"答える準備はできている、つもり。でも、自分の日常の中では見えていない。そういう人たちにとって、この映画は大きなきっかけになると思いました。多分「考えているつもり」の人たちはパラを観ないし、2020が終わってもずっと「つもり」じゃないかと。私もそうだったと思います。この気付きを、1人でも多くの人が経験すべきだと、そのためにもこの映画を公開すべきだと思ったのです。

別にこの映画じゃなくてもいいけど、企画を立てた2016年当時はおろか、2020年になったいまでも、パラの情報って溢れてはいないです。だったら1つでも多い方がいいし、この映画は「いま」を映してはいないという点でも、世に出す意味があると思いました。


1964年の見方

公開にこぎつけるまでの5年の間には本当に色んな事があって、色んな人に色んなことを言われたけど、最後の1年ちょっとで、ようやく正しく手助けをしてくれる気持ちと力を持っている人たちに会うことができて、なんとか世に出すことができました。この映画を上映することに賛同したり、興味を持ってくれる人は、時間をかけて膝を突き合わせれば、ちゃんと応えてくれる人ばかりだったからだと思います。いま、このタイミングでみんなにパラを考えてほしいと、みんなが漏れなく考えていたからだと思います。

それでも、人によってこの映画から汲み取ることはまちまちでした。今とは違う競技の形態、当時の東京の街の様子、大会を支えたボランティア、選手村。そしてある人は「64年から50年経っても進歩していないこともある」と言いました。結婚や就職へのハードルは依然高いまま、段差だらけの街、人々の理解。

64年の東京を見ることは、「いま」できていること、できていないことを浮き彫りにする手段としては、ひとつ良いものだったと思います。ほかの情報とは違う気付きを与えられる、そういった自負もありました。


公開して

さて、そんな映画を公開してどうだったかというと、冒頭にも書いた通り、とてもじゃないけど「たくさんの人が見てくれた」とは言えない結果でした。私の仕事が及ばないところが大きかったとは思うのですが、私ができることはあれが限界でした。そうでなければ会社を辞める必要がありました。その程度だったと言われたらそうかもしれません。とにかくこの結果が、私が2020東京オリパラについて、思考を停止してしまった原因です。

2020年になっても、パラに対しての関心はこの程度、というか、やっぱりまだ「見えない」人があまりにも多い、そう感じました。でも決して不思議なことではなくて、私だって、上司の気まぐれで半ば強制的に見た最初の1回がなかったら。無理やり瞼をこじ開ける体験が無かったら、もちろん映画館まで行くことはなかったし、今年パラが開催されても見ていないはずだな、とそう思うのです。

実は劇場で公開する前、2019年の間に3回、先行して上映会を行っていました。オリパラについて学んでいる学生さん、関係者、積極的に興味のある人たちに先んじて見てもらい、評判が良かっただけに、一般の人との反応の差が堪えました。

どうやったらもっと多くの人に対して「無理やり瞼をこじ開け」られたのか、5年考えても結局分からないままでした。


自分の立ち位置と、「いま」「私が」考えるオリパラ

話を元に戻しますが、自分の立場はこういうことです。
パラリンピックそのものよりも、パラリンピックを「見る」ことがもたらす気付きは、今後の社会や個人にとって大きな意味を持っていると信じている。けれど、「見えていない」ものを「見える」ようにすることの難しさも身をもって知っている。

パラリンピックだけに話を限定しますが、私はやっぱり、いま、この国の多くの人にとって、パラリンピックはやるべきだと思っています。理由は先に書いた通りです。でももう従来と同じやり方では無理で、それは今年の1月に嫌というほど思い知らされました。

ではどうすべきか。単純だけど、接点を増やし、人々に近づける努力をし続けるしかないなと思っています。私が信じているパラの力は、「無理やり瞼をこじ開ける」ことが起点なので、なにもパラリンピックを全部見る必要はないと思っています。むしろ「パラリンピックです!!!!」みたいなフワッとしてるのにとてつもなく大きなボールを押し付けるのではなくて、とにかく切り口を増やして増やして増やして、切り刻んで小さなボールにして、どれかが誰かの目に留まったらいいな、という物量作戦です。(これは私が映画のプロモーションで出来なかったことです。)

2021年までの1年で、できることは多いはずです。例えば、今日のトークでも話題に上った分散開催。「東京」なんて括りは取り払って、地元のもっと身近な会場で開催して自分事化する(もちろんパラの会場の整備がどれだけ重要で、すぐに準備できることではないというのは分かっていますが、、)。無観客の試合を放送して、解説を超人気声優にやらせる。パラサポ(日本財団)が新しい地図を起用したのは凄く効果的だったと思っています。全く新しい切り口から、「瞼をこじ開けられた」人は多いはずです。でも、いまやることは彼らがリーチする人数を増やすこと、カバーできる円の半径を伸ばすことではなくて、とにかく円を増やすことなんじゃないかと思っています。

なんとなくみんなが言っているオリパラから、自分だけのオリパラの接点を見つける、遠くで誰かがやっていることではなくて、自分の目の前であの人がやっている、そう感じられる大会になったらいいなと、改めて思いました。

そのためには、自分事化できた人が発信を続けていくしかないのかもしれません。だとしたらコロナ云々は置いておいて、1年という時間は延期というより猶予です。選手にとっては、そんな悠長なこと言ってられない、という状況かもしれないけど、私の立ち位置からは、そう捉えます。この文章も、誰か目の閉じた人に、ぶつかったらいいなと思います。


ちなみに、一応「オリパラ」と言いつつオリンピックのことを全く書いていないのは、オリンピックの自分事化がまったくできていないからです。オリンピックこそ、「オリンピックです!!!!景気良くなります!!!!みんなハッピーです!!!!コロナに負けないよ!!!!でもめっちゃ利権絡んでます!!!!」みたいなよく分かんない巨大なイメージが先行してて、教室の窓から飛行船を見てるみたいです。

「オリンピック」の本来の意義を一度考えて、自分の手元に引き寄せることができたら、またお伝えしますね。



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