見出し画像

『ムーンライズ・キングダム』|現実をゆがませる文化的フィルターとしての「黄色」


映画を観て、黄色かったという感想、あるいは黄色に限らず、全ての色において、映画に色がついていると感じたのは、『ムーンライズ・キングダム』が最初の体験だった。


『ムーンライズ・キングダム』はアメリカの映画監督ウェス・アンダーソンの作品で、日本では 2013 年 2 月に公開された。舞台は 1965 年の夏、アメリカ、ニューペンザンス沖の小さな島で、話は 12 歳のサムとスージーが駆け落ちをするところから始まる。孤児で周囲に馴染めないカーキスカウトのサムと、親から問題児扱いされるスージーは、ひょんなことから出会い、惹かれ合う。文通を繰り返す中で駆け落ちを決めた二人は、島の端にある入り江に「ムーンライズ・キングダム」という名前を付け、二人だけの国を目指して森の中を進んで行く。

二人を追いかけるのは、スージーの両親と、スージーの母親と不倫関係にある島で唯一の警官、子供たちから尊敬されていないカーキスカウトの隊長など、どこか頼りない大人たち。
逃走劇を繰り広げる中で、キスをしてお互いの身体を触ったり、ピアスを
開けてみたり結婚式をあげたり、大人になろうと背伸びをするサムとスージーの姿と、立場やプライドが邪魔をして素直になれず、子どもじみた行動に出てしまう大人たちの姿が対照的に描かれている。大人を信じられない子供と、自分のことで精一杯で子供のことを考えられない大人たちが、少しずつ変わっていくストーリーもこの映画の魅力的な一面であり、劇場で初めてこの映画を観た時には、画面の黄色さよりもこのストーリーに惹かれた。

しかし、黄色かったという強烈な印象は拭えず、2度目の鑑賞で、黄色いという感想はあながち間違いではないと思い知らされることになる。



この映画は黄色い映画だという意識を持って観ていると、確かに画面上に無数の黄色いものが登場するのに気付く。

画像1

例えば、カーキスカウトのテントやスージーのトランクなどの小道具や、サムのスカーフ、スージーのワンピースといった衣装など、黄色く彩色され
た小物が数多く登場する。

しかしそれ以上に目を引くのは、草原や砂浜、木々の間から漏
れる光、サムとスージーの肌など、本来よりも強調された自然に存在する色としての黄色である。全体的に黄色いフィルターをかけたような世界が、この映画の中には存在している。この強調された黄色こそ、この映画を黄色いと思わせる最大の要素である。

画像2


ところで、ウェス・アンダーソンという監督は、その作品の中である色を特徴的に用いることで知られている。この『ムーンライズ・キングダム』の場合は黄色と水色で、(あるライターは muted yellow-green and pale blue と表現しているが、)特に黄色は多くのシーンで画面を支配している。

また、彼はディティールに非常にこだわりを持つ監督としても知られており、彼の映画の多くは美術や衣装の細部、さらには劇中に登場する文字のフォントに至るまで、彼の感覚に支配されている。この映画にはクローズドなセットこそ登場しないが、他の作品では潜水艦やホテル・電車など閉ざされた空間を、上・真横から90°のアングルで映し出すカメラワークによって、箱庭的というよりかは、言葉通り「ドールハウス的」な、予定調和で支配された世界を見せることもしている。

画像3

▲ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』


『ムーンライズ・キングダム』に話を戻すと、ウェスは自身のコメントの中でこの映画について「今回の映画ではあの時代(1960 年代)のノスタルジアを印象づけるという作業はやった」「この作品で『こんな子供時代を過ごせたらいいな』という願望を込めた」と語っている。
つまり、この映画の世界はウェスが持つ 60 年代的なイメージに基づいた(あるいはそのイメージに支配された)世界で、彼にとってはあの黄色い世界こそノスタルジアを感じさせる理想的な 60 年代の世界だったと考えることができる。

画像4

では、そこに用いられた黄色という色が果たした役割はなんだったのか。


西洋では、黄色という色がもたらすイメージにはネガティブなものが多い。長い間裏切りや嘘の色とされてきただけでなく、交通標識などでは危険を喚起させる色としても使われている。また、収穫の前だけ黄色い小麦畑や、ある緯度においてだけ特徴的な砂漠などから、空間的・時間的に限定された色であり、それゆえに不安定さを表す色というイメージも持っている。
さらに、黄色は太陽を表す色という顔も持っている。太陽というと地球
上の生命を生かしているという良いイメージに結びつきがちだが、太陽を表す色というのはつまり、見えない色であるということもできる。Paul Coates によれば、失明の危険性もあるため直視できないはずの太陽を表す黄色というのは、太陽をぼやけさせ、可視のものであると"思わせる"ゆがんだ形式、文化的なフィルターなのである。


『ムーンライズ・キングダム』で「黄色」という文化的なフィルターが用いられた理由はなんだろうか。

まずひとつには、黄色の持つ時間的・空間的限定性が、この映画のひと夏
の出来事というストーリーと結びつくということが挙げられるだろう。しかしそれ以上に、見えないものを見えるものとする、太陽を表す色としての役割に注視すべきだ。
先にも述べたように、この映画には自然の色が強調されて、現実よりもかなり黄色く見える場面が数多く存在する。これは、黄色を強調して、見えないはずの光を目に見える形として映し出す試みではないだろうか。つまり、この映画での黄色は、「そこにあるはずだが見えないもの」や、さらに言えば、「そこにあってほしいが見えないもの」を見えるようにするフィルターとして使われているということだ。
見えないはずのものを見せる色というのは、なにも偽りというイメージだけではない。目には見えないが、確かにそこに光が存在するという、信仰あるいは希望のイメージも、黄色という色にはあるだろう。


『ムーンライズ・キングダム』の黄色は、ウェスにとっての理想的な世界観そのものを表しているだけではなく、理想に過ぎない世界を、しかし確かにそこにある世界と思わせるフィルターとして作用しているのである。

画像5


参考文献
ミシェル・パストゥロー、ドミニク・シモネ『色をめぐる対話』松村恵理、松村剛訳(柊風舎、2007)
Paul Coates “Cinema and Colour The Saturated image” (British Film Inst, 2010)


この文章は、2014年に大学のゼミ論集に掲載したものを加筆修正しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?