見出し画像

プロレス、格闘技、メタル、パンク、そしてソフビ ~take-shitインタビュー①~

パンク、メタル、格闘技、そしてソフビ(ソフトビニール製の人形)。僕が好きな文化を掘り下げるとき、必ずtake-shit(cocobat・ココバット)の存在が浮かび上がる。

そんなtake-shit氏に、話を伺う機会を頂いた。もともとは、現在の世界的なクリエイターズ・ソフビ・ブームの起源とされる、1990年代のストリート界隈の玩具文化事情を知りたくて聞き始めたら、芋づる式にあらゆる同時代文化の話に及び、それが僕にとってあまりに面白すぎたので、インタビューという形で世に出すことを許可していただいた。

 プレイヤーであり、コレクター(現在・半リタイヤ)であり、さまざまな現場の目撃者でもあるtake-shit氏の「タケ視点」を通して、1960年代から現代に至る日本の文化的DNAが奇跡的に絡み合い、配合する……!

プロレスラーをホテルまで追いかけたカメラ小僧時代


ーーー現在もキックボクシング・ ジムなどに通われてますが、 格闘技は子供のころから 好きだったんですか?

キックは、ずっとStruggle (墨田区押上、代表鈴木秀明) でやっています。 鈴木秀明選手の現役引退後から スポセンで打撃を教わって 現在に至ります。90年代に 勝山恭二選手(元スーパータイガージム インストラクター) に一時期教わっていた事があり、 その流れの中の人脈で、 現役引退後の鈴木秀明選手 と知り合いました。柔術は、現在は去年病患いお休み中ですが、一応紫帯です(授与元は今成柔術)。

僕の地元には角海老ボクシングジム、黒崎健時の目白ジム(のちの黒崎道場、タイガーマスクになる前の佐山聡が打撃を学んだジムとしても知られているジム)、大沢食堂(大沢昇のジム、辛いカレーが有名で、格闘家、格闘技マニアが集う隠れ家的な食堂)、隣の駅まで行けば、極真空手総本部道場もありました。そして、後楽園ホールも割と自転車圏内。

物心ついた時から、近所の壁にはプロレス・格闘技興行のポスターが常にぎっしり貼られていました。

自分の家の側にある坂では、藤原敏男や目白ジムの選手達が、常に坂道ダッシュをしている、という環境。ちなみに猪木戦の前には、ウイリーウイリアムスも、この坂で走り込みしていましたよ。ちなみに映画『四角いジャングル・格闘技世界一』でも、この坂の走り込みシーンは、しっかり収録されています。

ーーーめちゃくちゃ身近に格闘技があったんですね。 

後楽園が近いという事で、幼少期から後楽園ゆえんちには、仮面ライダーショー目当てで通いました。ちなみに、自分の初ヒーローショー観戦は、アニメ版『正義を愛する者・月光仮面ショー』です。

小学生時代は野球少年だったので、日本ハムファイターズ・ファンクラブに入り、野球観戦にあけくれていました。ファンクラブ会員は、後楽園球場の
年間フリーパスがあったので。

当時の日本ハムファイターズのファクラブ特典バッチ

小学生高学年になると、同じ後楽園でも野球観戦では無く、隣の黄色いビル、後楽園ホールで行われていたプロレス観戦にシフトしていました。

昭和40年代初期に生まれた男子なら必ず洗礼を受ける、スーパーカーブームをキッカケに、緩いながらカメラ小僧化していた自分でしたが、今度は、プロレス観戦をキッカケにカメコ*としての血が騒ぎ、一気に拍車がかかりました。

*主に異性の被写体の方々がカメラ小僧を呼ぶ通称

ーーーなるほど、カメラがきっかけでスーパーカーから外国人プロレスラーに被写体がうつっていったんですね。どちらも「海外から来た凄いもの」ですね。 

最初は、大型バスから降り会場入りする、歩く外人レスラーを、遠目で撮影するだけでしたが、そんなもので満足できるはずもなく……。外人レスラーの泊まるホテルまで行って、スナップ写真や、ツーショット写真を撮り、サインをもらう為に通うようになりました。

丁度この頃、ビックカメラが池袋で幅を利かせ始めていた時代で、しかも、ビック、ヨドバシ、さくらや、写真焼き増しの低価格化戦争勃発中で。

ちなみに、今では考えられない事で、でも時代的に許されていた?って事だと思うけれど、ビックカメラが提供する「ビックアクションカメラ」っていう、東京12チャンネル(現テレ東)が放映してた、盗撮に特化?していたお色気バラエティー番組なんかもありましたね。

プロレスの話に戻ると、当時のホテルは、まだおおらかでした。レスラーが、食事や買い物の為、ロビーに降りてきたら、皆サインを貰っていました。学校の英語は得意では無かったけれど、デイリーコンサイスは常にポケットに入っていて、単語で、言いたい事を伝えていました。

自分のカメコ時代に撮り貯めた、プロレスラーの写真は、原宿a store ROBOTで写真展として公開したことがあります。それを見たプロレス雑誌『KAMINOGE』の人から急遽インタビューしたいと連絡がきたので、当時のエピソードを話しました。

ーーー『KAMINOGE』のインタビュー記事、読みました。これは唯一無二の貴重な大衆文化資料ですね! 

TAKE-SHITインタビューが掲載された『KAMINOGE』vol.30

洋楽は「サインを貰い、写真を撮り、後から聴いてみる」スタイル


ーーープロレスラーのカメコだった小中学生だったのが、どういうきっかけで音楽に目覚めたんですか?

プロレスラーが泊まるホテルには、海外から来日する洋楽のアーティスト達も泊まっていました。ホテルのロビーは、プロレスマニアのカメコ達と洋楽のグルーピーと、そのグルーピーまで行かないサイン目当てのミーハー女子達で、いっつもあふれかえっていました。

プロレスラーのサインを貰うついでに、洋楽アーティストのサインなんか
も、もらっていました。

1981年春、アイアン・メイデン初来日公演。当時、「アイアン・メイデン」っていう外タレ今泊まってるらしいよ、って会話しながら、じゃあそれ聴いてみようって、友&愛*でレコード借りたり。

* 友&愛 都内にあったレンタルレコードチェーン店で、現在のエイベックスの元になったと言われている

1982年1月に、5枚目のアルバム『コンバット・ロック』発売前に初来日したThe Clashのポール・シムノンから、ホテルのロビーでサインをもらいましたが、最初にサインを貰い、写真を撮って、それから、彼らはどんなバンドなんだろう?って、レンタルレコード屋や図書館に行ってレコード借りてくるという、少し普通の洋楽リスナーからしたらおかしい順序の聴き方をしていました。

TAKE-SHIT氏の当時のサイン帳
ポール・シムノンの直筆サイン!

ーーー1980年代って、メタルとパンクは仲が悪いっていうイメージがあったはずだから、どちらも聴くというのは珍しかったのでは。 

僕らの世代は、まだまだ、パンクとメタルを同一線で聞けて両方のジャンルを掘り下げていく様な聴き方をしている人は、周りにはあまりいませんでした。

最初にミュージシャンに会ったり、見たりして、その後に彼らの作った作品を吟味するという、この方程式のような音楽への触れ方だと、あまり双方の
ジャンルに壁を作る様な耳や脳は育ちませんよね。

あと、、、その頃の、少し物騒なエピソードだと、そのホテルの上層階から、俳優の沖雅也が飛び降り自殺してしまった事件がありましたが、僕、その時ホテルに居ました。

ーーー「涅槃で待つ」ですね! 当時大ニュースだったから、凄い現場に立ち会いましたね。

当時、新日本プロレスは新宿のホテルを使っていて、国際プロレスは新大久保、全日本は品川のホテルを使用していて、僕は、中学校終わったら、その足でホテルに自転車で向かい、一日中夜中まで、同世代や先輩方のプロレスカメラ小僧達とうだうだしていました。

この頃、とても仲が良かったカメコ友達の中に、長島ナオトという男がいて。同じ年の奴で、彼には、それは、とてもとても影響受けました。プロレスと写真と音楽(バンド演奏)、これらの趣味が共通していたし、パンクもメタルも両方分け隔てなくかっこよいものとして聴く、そして聴くだけでは無く、ちゃんとバンド活動もやっている、という点でも。

彼は、この頃全国規模で流行っていた、少しエッチな中山美穂主演のテレビドラマ『毎度おさわがせします』の次に放送される事になる、中山美穂主演番組第二作目『夏・体験物語』の主人公の相手役として抜擢され、俳優としてデビューするんです。

長島ナオトのデビュー曲『ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー』(1986年9月)

当時の芸能事務所のなかの人の考えでは、しょこたんの父の中川勝彦や、仙八先生出演後からの本田恭章とか、あの路線に続いていくような、俳優からアーティストという感じで行こうとしていたみたい、っていうか実際に音楽活動もしていたし、南野陽子主演のドラマ『スケバン刑事Ⅱ 鉄仮面伝説』の影の総統役とかもやってたはず。

ーーー長島ナオトさん、南野陽子のラジオ「ナンノこれしきっ!」にゲスト出演した時、すごく恥ずかしそうに「おまんら、許さんぜよっ」て言わされていたの、今でも覚えています。

高校上がったばかりくらいの時、『写真時代』(白夜書房)に衝撃 を受けて、 アポなしでいきなり自分で編集部に行き、自分の写真を持ち込んで、カメコをしてます、プロレスラー・外国人タレント・芸能人 のオフショットを撮影してます、と直接話しをしに行ったことがあって。

その時渡していた芸能人の写真 が、のちに出版された 『スーパー写真塾』(少年出版社)に連載されたということがありました。創刊号もしくは創刊第二号のはず。掲載されたスナップ写真は2枚で、フジテレビ新春かくし芸大会でエマニエルぼうやのコスプレをした松田聖子と渡辺めぐみ(のちの「よめきんトリオ」) 。

その後、1993年の『スーパー写真塾』 にCocobat/S.O.B のライブ特集記事が カラーで連載されて、 そのころは『スーパー写真塾』内で 著名ミュージシャンや、 当時はまだ知る人ぞ知る的なミュージシャンの方々の マイブーム的コラムが 充実してきた頃。そんなノリが 『ブブカ』(白夜書房) に受け継がれ、今度は ガスボーイズの今井くんが、 スニーカーや、”現代のオシャレ関連”風のページを始めて、その流れで、今度は僕の連載「たけ視点」がブブカで始まったのです。

最初の年の1998年は隔月で始まり、翌年からは毎月連載になりました。 そして、自分の連載は、担当者の部署移動と連動する形で、連載誌も変わっていきました。 BUBUKA~BUBUKA MAX~BREAK MAXという流れです。合計で8年程続きました。

カメラからバンド、格闘技、そしてソフビへ


ーーーカメコ時代が、のちのtake-shitさんの多方面な活動の原点になっていたんですね。

僕自身も、高校に進学すると、より音楽を深く追求する様になり、高校生では、定番の学園祭に出る為バンドも始めました。と同時に、よりマニアックな激しい音楽を大きな音で聴きたい願望も出てきて、新宿のツバキハウスというロックのかかるディスコや、ローリングストーンというロック喫茶などに毎週末通う様になります。

バンド練習は池袋ペンタか大塚ペンタでやっていました。ここはハードコアバンド、メタルバンドがとても多いスタジオでした。この環境もパンクとメタルが、ごっちゃ混ぜになる要素かも。

ADKというハードコアパンクレーベルの作品は、大体、大塚ペンタで録音されていましたし、池袋ペンタにはX(のちのX JAPAN)やユナイテッドやリップクリームといったバンド達がいつも練習していました。

ーーーYOSHIKIさんとリップクリームのNAOKIさんがL.O.Xというプロジェクトを組んだりしてたのは、練習場所が一緒だったという縁もあったからなんですね。

そんなこんなで、高校在学中からライブハウスにも通う日々で、そこから、今度はメタリックでよりハードコアな音を出すバンドを始めました。

バンドのギターはメタルバンドのユナイテッドのオリジナルメンバーのギターリストで、ボーカルは、リップクリーム、デスサイド、鉄アレイのローディーや運転手をしている人。このMino-5というバンドで、デスサイドのチェルシーのプロデュース作品として、セルフィッシュレコードから、一枚作品も出す事ができました。

その頃、元鉄アレイのギター荒野くんやその仲間達が、 新宿のスポーツセンターで格闘技教えている、 ということで、そこに参加するようになりました。 その練習会に誘ってくれたのは、岡くん (元Zaap!・現メディコムトイ)で、彼とはその後、一緒にオリジナル 玩具も造るようになります。 ちなみに荒野くんは鉄アレイの後は グールのマサミさんとバンドやっていました。

そこで教わったのは「体術」という形態らしく、打撃も寝技も有りで、大道塾、自衛隊徒手格闘、修斗などにも参戦していて、自分には魅力的な総合格闘技だと思えたのです。1980年代後期だと、都内に総合格闘技のジムや道場なんて物は無く、皆自主的に、都内のスポーツ施設でそれぞれ独自の練習方法で試行錯誤していました。

当時の『Number』に、「体術」全日本体術連盟が紹介された記事があります。当時、シューティングよりも大きな記事だという、この事実……。時代を感じます。まだ第二次UWF大ブーム中の頃です。

『Number』1989年5月20日号
『Number』の「体術」紹介記事

ーーー高校生活のバンド活動が、よりハードコア なバンド活動になり、そこから自然と格闘技にまで繋がっていくわけですが、バンド活動一直線だった時期に、 どのタイミングで怪獣ソフビに再び目覚めたんですか?

『ロッキンF』という雑誌で、元ラジャスでデッドエンドのベース crazy cool joe や、元ノヴェラでアクションの高橋よしろうが、怪獣プラモデルや怪獣ソフビを投稿する小さな コラムページがあり、そこでなんか、自分の中でジワジワ来るものがあって。

さらに、追い打ちで シティ・インディアンというハードコア・バンドのレコードジャケットでメンバーが怪獣ソフビを手に持っている写真があって、それもとても衝撃でした。

自分はソフビとかオモチャをとっくに卒業していたんだけど、 自分の好きなハードコアのレコードに怪獣が写っているいる、 これはどういうことだと思って。

そんな時期に、バンダイが出していたB CLUBという月刊誌の別冊?増刊?という扱いで、『怪獣玩具』という怪獣ソフビの写真集が発売され、それを書店で立ち読みしてしまい 、一気に自分の中で怪獣ソフビ熱が加熱しました。1986年かな。

『怪獣玩具』1986年発行

これは自分が新宿のレコード店勤務時代の話なのですが、 「かまいたち」という、少し変わった系統のビジュアル系バンドがいたのですが、 メンバーみんな怪獣人形好きで、ホールコンサートツアー・ クラスになった時は、川越の古物玩具店の「いぬくま」がコンサートツアー物販に同行していましたし、 円谷プロから着ぐるみ借りて、コンサート 終盤にはきぐるみ怪獣総出演という演出で使っていました。

「かまいたち」のテレビのドキュメント番組があったんですが、休日は古物玩具店で怪獣ソフビを買い漁り、 自分の部屋に並べてチルしている様子なんかを放映していました。

ビンテージ・ソフビを探して


ーーーロックと玩具ってかなり繋がっているんですね。

当時原宿にあった、パンクショップ「デッドエンド」が、代々木に古物玩具も扱う店「パープルヘイズ」を新しくオープンさせたり、アートストームという、玩具系プラス特撮アーカイブのイヴェント「スーパーフェスティバル」(通称スーフェス)を仕切ったりガレージキットや合金、ソフビ玩具を製作する会社になりました。

「デッドエンド」の京都店をやっていたフンニャラ氏(元ボーンズ、シティ・インディアンのベース)が、関西では昔から洋物を扱っていたロッキン・トイショップ「アストロゾンビーズ」を経営しています。

1986年6月号の『Thrasher magazin』のグレン・ダンジグ特集号の中のグレンの日本玩具コレクションを見て衝撃をうけましたね。彼の髪型、前髪を垂らす「デビロック」はキャプテンハーロック、不動明(デビルマン)など、日本のアニメの影響だったというインタビューにも衝撃を受けました。1986年当時、『Thrasher magazin』を置いている店は東京だと原宿の「ムラサキスポーツ」、神奈川県では鵠沼にあるサーフショップ「パイナップルベティーズ」くらいでした。

THRASHER 1986年6月号

ーーーでは1980年代半ばくらいからソフビを再び集めるようになったんですね。

その昔、渋谷西武の地下にアンティークショップがあって、そこから青山「ビリケン商会」、下北沢「懐かし屋」、池ノ上「イメージバンク」と派生していった、と聞きました。で、下北沢に「二丁目三番地」「オムライス」、そして「ヒローズ」が出来て、高円寺に「ゴジラや」、高田馬場に「ねずみ小僧」、国分寺の「バットマン」(後のマジックボックス)かな。

あとは、まぁその時点で、『ホビージャパン』や『宇宙船』に広告出しているお店は大体チェックしに行きました。「まんだらけ」は、まだ古書店でしたが、何故かいつ行っても、パチ・デビルマン(原作版顔)の袋入りが本棚の柱にぶら下がっていて、値段は3000円くらいだったかな、僕は相当な数買ったつもりですが、行くと、またぶら下がっていて、、、そんな感じでした

レコード店勤務時代の1989〜1991年頃、自分は系列店である大宮店勤務の時も多かったのですが、そこで「ジョニークエスト」という店を知り、まだまだ関東近郊でも玩具は玩具屋の倉庫に残っている、ということを教えてもらいました。最初のジョニークエスト店舗は、まだ大宮の再開発前の旧道沿いにあって、都内のどの店よりも価格設定が安く、なんでもありました。マルサンの「怪傑透明ウルトラエース」スタンダードサイズの袋入りは、そこで2000円くらいで 買いました。多分2、3年は誰も買わずにぶら下がっていました。

埼玉県も、もう少し奥の川越に行けば、「イヌクマ」がありました。表向きは、レコード/CDショップの店構えでした。ここでは、レアなサンプルCDと
怪獣ソフビを交換してもらえました。まだまだCDというフィジカルの価値が高かった時代ですね。

そーいえば、今にして思えば、、 イヌクマで思い出したのが、 バックヤード覗くと、普通にジャンボマシンダー「恐怖の悪魔軍団(マジンガーZの敵ロボット)」の (ツノ折れだったけれど) キングダンX10が2体とスパルタン k5 とか普通に置いてあったんですよね、、、

ーーーまじですか。。。なんかもうタイムマシンで戻りたくなりますね。

1986年に、パスヘッドがメタリカの初来日に合わせて来日したのをキッカケに、パスヘッドはよく日本に来るようになり、パイディアのナリキさん(後に渡米後Mephisto Walzに加入)、リップクリームのボーカルJha Jhaの家に泊まりながら日本の玩具屋を回っていたのですが、僕も同行して、そのあたりの古物玩具を買う上での作法というか……それぞれ店舗ごとに、微妙に異なる、品揃えや価格の差、店主と会話しながら、商品の入荷しやすい物、しにくい物、など状況を聞きつつ購入していく、、、などの古物玩具の購入方法的なものを、その時学びました。

『Thrasher Magazin』1987年2月号に掲載された、1986年metallica初来日( 中野サンプラザ公演)のバックステージ写真。メタリカ、リップクリーム、take-shit !

トイショーの時などで、隣の机になった時など、シティインディアンのフンニャラ氏に昔話を聞く機会がたまにあるのですが、シティインディアン/リップクリームが1986年に行った「DYNAMITE TOUR」という全国ツアー道中、玩具店で売れ残っていた、旧バンダイ製シルバー仮面の宇宙人をダンボールで買った話などなど、80年代はまだまだ夢の様な逸話があるんだなぁと。

自分のバンドに置き変えても、まぁ90年代になってしまいますが、バンドの全国ツアーの移動を、高速道路を使うのでは無く下道(国道)を使うことで、まだまだ「トラック野郎」の舞台に出てきそうな、大衆食堂や、五月人形/雛人形も一緒に扱う、昔ながらの古びた日本家屋の玩具店なんかも、普通にありました。

バンドメンバーには申し訳なかったけど、そんな店舗を見つけたら、いちいち降りて、店内チェックはしていましたよ。でも、そんな時に限って、『仮面ライダーblack』の乗用バトルホッパーとか、『宇宙刑事ギャバン』の電子星獣ドルのジャンボマシンダーとか、ツアーバンに入れて運ぶには大き過ぎる玩具が売っていたりして、、、泣く泣く買わずに、諦めて、店をあとにする、なんて事、ありましたね。

ソフビ・コレクションはリタイア中?


ーーーtake-shitさんはビンテージソフビに関する知識ってどうやって習得していたんですか?

大体その道の有識者に聞きます。やっぱりお店で働いていた人は僕なんかより知識は全然すごいですよ。

でも、みんな得意分野はそれぞれ違うので、皆んなの良い所を僕の脳味噌の中に、蓄積させてもらっている感じです。もちろん、その時は自分の情報も、惜しみなく出していますよ。

あと、一時期は毎日国会図書館に通って、当時の業界誌『玩具商報』『トイジャーナル』、後は1960年代〜1970年代の各種少年誌の自分の気になるページのコピーを取っていました。やっぱり、勉強は大事だと思ったので。

そこで、思った事なんですが、肝心なマルサンの広告が、かなり切り取られているんです。これ、先に行動していた先輩方がやったと思うのですが、なんか、物凄く悲しい気持ちになりました。日本人のモラル落胆具合に。

玩具業界専門誌『玩具商報』のバックナンバーをまんだらけがモノクロコピーして再編集して発売した復刻版

ーーー最近の新しいクリエイターズソフビは集めてないんですよね?

はい。もう2000年初頭でビンテージを 集めるのも基本的には辞めてます。 震災以降はほとんど買っていません。骨董市は行くけれど、 もう怪獣ソフビとかほぼでないし、そこで、たまに出てくる、 ボロボロの少年誌や駄玩具みたいなのを買ってるくらい。

ビンテージのソフビ・コレクターは高齢化しています。 自分も、もう高齢の域に片足突っ込んでいますし、 先はそんなに長くはないと自覚しています。 自分の前やってたバンドMino-5のボーカルは、 怪獣ソフビを一緒に、沢山集めていたけど、 不慮の事故で死んでしまいました。 丁度、柔術も始めて、一緒に練習しようと話し合っていた矢先です。しかも彼の部屋の棚には、大量の怪獣ソフビを 残したまま。だから、棺桶の中には、柔術着と怪獣ソフビを入れました。 人生は本当に何があるかわかりません、、、

ーーーでも、昨今の世界的なソフビ・ブームや、バッドボーイズ佐田総長のYouTube人気などの影響もあって、ビンテージ・ソフビに注目する若い世代も増えているみたいで、二次流通価格が再び上昇してるんですよね。どうなるのか、本当わからないですね。


②に続く

真実一郎


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?