哲学は役に立たないのか(3) 哲学の有用性批判に対する,アリストテレスによる哲学の擁護

哲学の有用性批判

 哲学の有用性にかんしては,すでに古代ギリシアにおいて懐疑的な批判があった.アテナイの市民,とりわけ若者たちを惑わし,異質な宗教で政治を乱したとして,ソクラテスが告発され処刑された例は,その一つの頂点であろう.こうしてソクラテスの弟子たちは,師の教えをそれぞれ継承していくが,中でもプラトンが哲学の学園アカデメイアを建設し,師の思想を対話篇の中で伝え,哲学を発展させたことは有名である.

 哲学ほど,どの時代においてもつねに批判されてきた学問はないだろう.現代においても,経済危機のなかで,哲学はその社会的有用性が疑問視されており,国立大学ではそのカリキュラム上の位置付けを疑問視されている.その批判の矛先は,哲学という固有の分野にもはやとどまらず,およそ経済的な応用をすぐには見出せず,数値的にも社会的効用が明らかにできない人文学や基礎科学の全体にまで及んでいる.私自身も,人文学部に所属する一教員として,人文学無用論と向き合わなければならないが,哲学の有用性に関する考察に,何らかの反省すべきヒントがあるはずだ.なにせ,哲学にはその有用性を批判されてきた,歴史的な蓄積があるのだから.

 さて,前置きはこれくらいにして,今回考えたいのは,アリストテレスについてである.(そのいきさつについては私にはまだ不明だが,)プラトンの弟子であるアリストテレスもまた,哲学無用論と正面から向き合わねばならなかったようで,彼は,『哲学のすすめ』という書物を遺している.その書は,記されてから500年ほど後に,新プラトン派のイアンブリコスが筆写した文章から再構成されたもので,アリストテレスの真作かどうかが問われるが,ほぼ完全な復元に近い状態らしい(訳者の「はじめに」参照).

 その『哲学のすすめ』の中で,アリストテレスは,哲学が役に立たないという批判を一蹴し,むしろ「われわれは哲学をすべきである」と主張する.そこで以下では,その著,『哲学のすすめ』にしたがって,アリストテレスがなぜこのように考えるのか,検討していきたい.なお,引用や私による議論の再構成は,次の翻訳に基づく.

廣川洋一[訳・解説]『アリストテレス「哲学のすすめ」』講談社学術文庫,2011年.

 ただし,本稿は自分なりに議論を簡約したり,自身の考察を付け加えた部分もある.自身の考察や脱線は【 】で切り分け,本文ではなるべくアリストテレスの議論に忠実になるよう心がけたつもりだが,自身の解釈が混じっていないわけではなく,専門外ゆえの誤解もあるかもしれない.また,アリストテレスの議論の整理は,本稿の主題である哲学の有用性に関連する部分に集中しており,本体から省かれている内容もあることを断っておく.

「哲学」とは何か

 アリストテレスが考える「哲学」は,現代の学問分類における〈哲学〉よりも,かなり広義なものだった.そこには,現代では「哲学」から独立し専門分化していった自然諸科学の対象領域に含まれるものもあろう.つまり「哲学」は,現代のように高度に専門分化された中での狭義の〈哲学〉の意味では捉えられていない.しかし,「アリストテレスの考える哲学という学知には,二つの領域,つまり正しいこと,有益なことについての知識と,自然や実在に関する知識が含まれている」(廣川洋一)と言われるように,その本質的部分においては,今でも十分に通用するところがあろう.

 まず,アリストテレスにとって,哲学とは,知識の適切で正しい使用法を考察し,それを与える学問である.どんな知識でも,それを正しく用いることができなければ,危険を伴う.このことでは,とりわけ政治的な実践における知識の誤った使用が意識されていよう.

「したがって,われわれが政治に正しくたずさわり,われわれ自身の生を有益に過ごそうとするなら,われわれは哲学すべきである」

pp.23-4

 さらにアリストテレスは,知識には様々な種類があるが,その内には統率的な知識があると言う.それが,哲学が探究の目的とする「」である.

「したがって,判断の正しさをもち,理性を用い,完き善を観照する知識──これこそ哲学にほかならない──だけが,すべてのものをそれぞれの本性に則して使用し,また命令を与えることができるとすれば,われわれは,あらゆる手段をつくして哲学すべきである.」

p.24

 なぜそれが哲学であって,他の学問ではないのか.アリストテレスは,「ただ哲学だけがそれ自身の内に正しい判断と誤ることなく命令を与える理知をもっているからだ」と言う(p.24).つまり,哲学は思考を正しい判断へと導く,他の諸学よりも指導的な学問である.

【[考察]しかし,現代的な観点から見れば,哲学も誤ることがあるのではないか,むしろ,数学などの精密科学と比べて,誤る可能性はより高いのではないか.そして,哲学が他の知識を扱う諸学に対して,指導的な立場にあると言えるのか,とりわけ専門文化した現代という時代においては,という疑問は当然出るだろう.実際,哲学の歴史を振り返ると,それは真理の歴史というよりは,誤謬の歴史だったように思われる.ただここでは,アリストテレスがなぜそこまで哲学を信頼するのかが問われるべきだろうし,現代において哲学がどの程度信頼されているかが問われるべきだろう.現代において,哲学の信頼性が失われている一方で,しかし哲学の必要性はまだ残存しており,危機の時代においてこそ哲学が求められるならば,その信頼性を回復せねばならない.】

 また,アリストテレスが哲学を他の学よりも重視するのは,それが,より後のものよりも「より先のもの」を志向するからでもある.いかなる意味で「より先」なのかが問題だが,基本的には「原因」となるという意味で,より先である.つまり,哲学は,結果よりも原因を求め,それを知ろうとする.無規定・無秩序よりも秩序が,より悪いものよりもより善いものが,いっそう知られうるものであり,哲学はその秩序と善についての知識にかかわる学問である.こうしてアリストテレスは,自然および魂についての最も先にある原因,すなわち第一原理を探究し,その知識を扱う学として,哲学を規定する.

 このような秩序や善,そして第一の原因の統率的かつ卓越的な知識にかかわる魂の部分を,アリストテレスは「理性(ヌース)」と呼び,またそうした卓越した知的判断の能力を「理知」(賢慮:プロネーシス)と呼ぶ.アリストテレスは,より善いものに関わる点で,「理知こそ善いものの中で最高のものである」とした上で,ふたたび哲学の必要性を説く:

「哲学が,われわれの考えるように,知恵の所持でありまたその使用であり,さらに知恵は善いもののうちの最大の類とするなら,われわれは哲学から逃げ出すべきではない」

p.28

なお,「知恵(ソフィア)」というのは,アリストテレスにおいては「エピステーメー」すなわち学問的知識の方向を向いており,究極的には観照知ないし理論的知識を指すが(『形而上学』A[第一巻]第一章など参照),この文脈に照らして考えれば,理性や理知の働きによってより良い知識を得るための方法的・実践的知識のことであろう.アリストテレスにおいては,哲学は理論知の探究であるとともに,実践知とも深く結びついていて,両者は不可分である.

ただ,哲学の第一目的は,真理の観照にある.アリストテレスは,魂の思考する部分のはたらきとして「真理」にまさる善いものはないとする.そして,この真理という魂の部分は,「知識」がより完全にされることによっていっそう遂行される.その知識の最高目的が,「観照」である(p.36).「観照(テオリア)」とは,自然本性を把握することで,実践を意味するプラクシスと対比される.アリストテレスは,哲学者の理想をこの観照的生活に見た.

 他にもアリストテレスは,哲学をすすめる理由として,哲学が容易であり,また哲学することは楽しい,ということも挙げている(p.29).哲学の第一印象として良く言われるのが,「難しそう」とか「大変そう」というものだが,実に彼は,その反対を主張している.彼は,哲学の容易さの根拠として,哲学は短時間のうちに多くの技術知を厳密さという点で追い抜いたことを挙げている.また,万人が哲学に愛着を感じそれに没頭したいと思う事実は,哲学することの楽しさを示している.そして,哲学をするにはいかなる道具も場所も必要とせず,思考さえすればできるものである(pp.29-30;訳者解説p.106).

【ただしここら辺は,そこまで説得力を伴って論じられているわけではない.これらは,訳者解説(p.106)でも述べるように,哲学がいかに興味深く実生活で重要であるかを示すものではあるが,哲学すべきことの理由としては核心をついたものではなく,一般の人々の関心を引き起こすための導入にすぎないのだろう.】

〈よく生きる〉ための哲学

 さて,アリストテレスにとって,哲学とは何よりも,よく生きるための学問だ.次の言葉は,現代を生きる我々にとっても,響くものがあるのではなかろうか:

「またよく生きようとはしないで,ただ生きることをひたすら願い,また自分自身の意見にもとづいて多数者を評価することをしないで,ひたすら多数者の意見に追随し,また財物は追い求めるが,美しいもの,善いものにはまったく心を向けることがない,というのは奴隷のすることにほかならない.」

pp.28-9

【ここの引用,なんだか,大衆の人気とりだけに気を取られて,経済政策や派手なイベントばかりを重視し,教育・文化をないがしろにする,現代のポピュリズム批判・反知性主義批判にも聞こえなくはない.当時にも似たような背景があるのかもしれない,が,それは本題ではない(回避).】

 アリストテレスにおいて,「よく生きる」というのは「幸福」とほとんど同義である.幸福に生きるということの解釈が,快楽の内に生きることであれ,徳を身につけることであれ,理知の内に生きることであれ,それらは哲学することによってわれわれに生ずる(p.33).

 このように,アリストテレスは幸福を,人間の知的生活の豊かさにみた.だからこそ,哲学が幸福と結びつくのだが,それと対比されるのが,富や権力における豊かさである.そのことを次のような極端な例で示している:

「さて,すべての人にとって,少なくともこのことだけは明らかである.すなわち,人びとのうちでも最大の富と権力を手にしてはいるが,理知を欠き,正気を失ったまま生きるというのであれば,そのような生を選ぶ者はひとりとしていないだろう.」

p.45

【しかし,現実の国際政治においては,理知を欠き,正気を失ったように思われる権力者の暴走は,無視できない現実としてある.誰しもが,アリストテレスの唱えるような幸福観に賛同するわけではないだろう.暴君は理知的にそのような選択をしたのだろうか.あるいは,すでに理知を欠いているから,そのような生を選んでしまうのか.】

 こう述べることで,アリストテレスは別に,お金や社会的身分が,生きる上でまったく不必要だと考えているわけではない.ただ,それは生きるための手段であって,そのために生きているわけでもないし,それが最高の目的でもない.

 ともあれ,「知なき状態」を避けたい,というのは,個人レベルでも,集団レベルでも共通了解であろう.この知なき状態の反対が,「理知」[ある状態]である(p.45).したがって,理知ある生き方すなわち哲学の実践がなされている生活が,望ましい.哲学の目的は,「たんに」生きることではない.「よく」生きることである.よく生きることとは,理知をはたらかすことであり,それがすなわち幸福であることにほかならない.したがって,すべての人が哲学をすべきだと,アリストテレスは言うのである.

「すなわち観照的に哲学すべきである.そしてできるかぎり知識と知性(ヌース)に則した生を生きるべきである」

p.52

【ただし,アリストテレスの考えは,富や権力,名誉や名声が得られればそれでいい,それこそが幸福である,と信じきっている人たちにとっては,刺さらない議論かもしれない.このことは,信じたいことを信じるし,そうした自分に都合のいい情報のみを選択する「ポスト・トゥルース」の時代においては,なおさら懐疑的に思えてくる.
 また,生理的なレベルで生きるのが精一杯だ,という人たちにとっても,真理を探究する哲学的な観想的生活が,はたして当座の目的になりうるのかは,疑わしい.アリストテレスも,そのために,身体の健康や,財産や地位といったものもまたある程度,観想的生活のために必要な条件として認めているようなのだが,このような問題は当時しきりに議論されたことだろう.
 例えば,あなたの目の前に食べられそうな動物がいると仮定する.今食べなければ死んでしまう極限のサバイバル状態において,痛みを感じる動物を食べるべきかどうかの真偽について,われわれは観想すべきなのだろうか?(ポイントは,観想しているあいだにあなたが死んでしまうことにあって,動物食をめぐる倫理的な問いに対する真偽の決着をつけることではない.)これは次に問いにも通じる.国家が経済危機や戦争状態で追い込まれている中で,直接的にも即時的にも国家の利益にはなりそうにない哲学や他の学問を探究している余裕があるだろうか?(実際,第二次大戦下では,文系の学生を中心に学徒が動員された.)】

「よく生きる」ことと「たんに生きる」ことの関係

 哲学が,「たんに生きる」ことではなく,「よく生きる」ことだ,というのがいちおう理解できたとしよう.では,両者はどのくらい結びついているのだろうか.つまり,

Q. 「たんに生きる」ことができなくても,「よく生きる」ことはできるだろうか?

 哲学による知的幸福の追求を主張するアリストテレスに対して,このような疑問が生じるかもしれない.アリストテレスによれば,哲学は「たんに生きる」ための学問ではなく,あくまで「よく生きる」ための学問である.ただしそれは,「たんに生きる」ことができている,という前提条件が成り立ってのことなのではないか.「よく生きる」ことが「たんに生きる」ことより優先され,後者が満たされずに死んでしまっても,それでも「よく生きた」と言えないのであれば.

A. この問いに対するアリストテレスの答えは明確であり,かつ衝撃的なものである.すなわち,

「われわれは哲学すべきであるか,それとも,生きることに別れを告げてこの世から立ち去るべきか,そのいずれかである」

p.51

 なんと,つまり,知的な幸福を追求できないようであったら,むしろ死を望むべきだと彼は言うのである.ただし,それは死後の幸福があってのことではない.アリストテレスは,プラトンと違い,人が死後に完全な生ないし幸福に達しうるとは考えていないようである(訳者注解,p.55).むしろ,現実的な生の活動,したがって実際の行動において,哲学が実践されなければ,本当の幸福には至ることができないとする(ここら辺の幸福論は,彼の『ニコマコス倫理学』などでより深く,かつより理論的に展開されるだろう.)

有用性に基づく哲学批判に対して

 いよいよ本題である.アリストテレスは,このような哲学に対して,それが役に立たないとして批判する連中に対して,どのように答えるだろうか.

 アリストテレスは,何であれ知識は有用でなければならない,と主張するのは無知なもののすることだと言う.そのように批判するのは,「善いもの」と「有用なもの」とが遠く隔たっていて,根本的に異なることを理解していないからである.ある事物の有用性とは,その事物自体とは別の効用であり,副原因にすぎず,そのもの自体への愛好ではない.厳密な意味で善いものとは,それ自身のゆえに愛好されるものである.

「それゆえ,すべてのものから,そのもの自体とは別の効用を求めて,「それはわれわれにとってなんの得があるのか」とか「それはなんの役に立つのか」などと問うことは,まったくおかしなことである」

p.63

つまり,哲学とは「善いもの」であって,それに関しては,「役に立つ/役に立たない」という価値基準では測れない.哲学の有用性を論じる者は,そもそもカテゴリー・ミステイクを犯しているのである.本当の原因を求めて,自体性を重視するアリストテレス哲学の特徴が,ここにも通貫していよう.

【本当にそうだと言えるのだろうか.この点で,アリストテレスの哲学観・真理観は,プラグマティックではないが,現代でも似たような反発に出くわす.例えば,諸科学に対する哲学の無用性の主張に対してや,応用科学を重視して基礎科学を軽視する風潮に対して,「役に立つ」という観点のみからの評価をたいそう苦く受け止めている研究者の方は多いだろう.
 私自身は,この点にかんしては,「役に立つ/役に立たない」という観点を持たずに,純粋に知的好奇心の追求の結果作られた科学理論が,思わぬ応用を発揮する事例が挙げられると思うので,科学的探究そのものにとって,有用性とか余計な考えを持たないことも,実は重要なのではないかと思っている.むろん,有用性がわかっていればそれに越したことはないし,現代では科研費など予算の獲得のために,自分のやっている研究の社会的有用性をアピールするテクニックは不可欠のものとなっているわけだが,思わぬ応用を持つ,純粋な基礎研究が育ちにくくなってしまっているのではないだろうか.】

幸福な人々の住む島々

 アリストテレスは有用性をめぐり,面白い思考実験をしている.それは,「幸福な人々の住む島々」にかんする思考実験である.アリストテレスの幸福の定義に基づいて,そこに幸福な人々だけが住む島があったとしたら,どうなるだろうか.

「そこでは,何かのために役立つというようなことはまったくなく,また何かが他の何かに利益となるようなこともまったくなく,そこにはただ思惟することと観照すること──これをわれわれは今でもなお,自由な生と呼んでいる──とがあるだけだからだ.」

p.64

 仮にこのような島に住むことができるとして,そうしないとしたら,その人は恥じ入るべきだと,アリストテレスは言う.理知の報酬である善をこそ,われわれは喜ぶべきなのだ.

「したがって,知識がもたらす利益は人間によって軽んじられるべきではなく,またそれから生じてくる善はけっして小さなものではない.」

p.64

【しかし,全員がそれぞれ「ただ思惟することと観照すること」だけの生活をしてしまったら,人々はどうやって日々の生活を送っていけるだろうか,という素朴な疑問が立つ.
Q. あなたはこの「幸福な人々の住む島々」に住んでみたいと思うだろうか?
なお,もし否定する場合,アリストテレスによれば,あなたの理知に何らかの欠陥があることになる.】

 アリストテレスが,果たしてこのような島があったとして,そこで本当に「よく生きる」ことが成立すると考えているかは,実のところ私にはよくわからない.これは,あくまでも極端な仮想的な国の話で,より穏健な考えとしては,事物の自然本性と真理の観照というのは,日常的な有益性を犠牲にしたり,多くの労苦を伴ったりなど,何らかの代償を払ってようやく得られるものだ,という考えにも読み取れる箇所がすぐ後に出てくるからだ(pp.65-66).

 ただ,少なくとも,アリストテレスは,「役に立つ」という関係,すなわち有用性の観点から切り離されたところに,哲学の最高目的である善の観照が存すると考えていることは疑いない.すなわち,哲学の活動は,有用性の観点から評価してはならないものなのであり,哲学が役に立たないという批判は,的を得ていない,ということを彼は言いたいのである.哲学は,有用性ではなく,あくまで善の観点から評価されねばならないのだ:

「この理知が外見上有用ないしは有益なものと思われないとしても,怪しむにたらない.なぜなら,われわれは,それは有益なものと呼ぶのではなく,それ自体善いものであると主張するのだからであり,またそれはそれとは別の何かのゆえにではなく,それ自身のゆえに選び取られるのが理にかなっているからだ.」

p.65

哲学はむしろ最高に有用である

 ここまでの議論は,哲学を有用性から切り離しても,哲学を探究すべきことが主張されていた.アリストテレスはここで一転,哲学することすなわち観照的理知は,人間の生に対して最大の利益をもたらす,と主張する(第五章(X),p.71).

 そのことは,医者や体育家がそれぞれ専門の医術や体育術という技術の経験を積んではじめて卓越性(アレテー)を得ているのと同様に,哲学は,政治家に必要とされる「何が正しいか,何が立派か,何が有益か」や,法律家に必要とされる自然に最もよく則して立てられたものを,自然そのものすなわち真理に照らして判断する技術の経験を積んだ専門家だからである.

 とりわけ,哲学者のみが,原初のものの観照からその技術の道具を得ているのであって,他の諸学は,それらの道具を,原初のものからかけ離れた,第二次的,第三次的なものから,経験を介して得ているにすぎない,とする.

「厳密なものそのものを模倣することは,すべてのひとのうち,ただ哲学者だけに許されている.なぜなら,哲学者は,原初のものの観照者であって,模造物の観照者ではないからだ」

p.73

 「原初のもの」すなわち第一の原因ないし根本的な「原理(アルケー)」の学として,哲学はあり,哲学的な観照によってのみ,立派な政治家や永続的な法を確立しうる.それゆえに国家は哲学を必要とするはずだ,とアリストテレスは論じている.

哲学することこそ楽しく生きることだ

 アリストテレスは,さらに,(細かい定義や議論を省くと,)われわれの魂のはたらきのうち,最も優れているのが「思考する」という作用であるとする.そして,「生きる」というのは,人間にとっては何より魂の活動であるから,魂が最も現に活動している状態にあるときに,「最も生きている」と言われるとする.こうして,最も生きている人というのは,「理知ある人であり,最も正確な知識にもとづいて観照する人である」.そして「完全で,何物にも妨げられることのなに活動は,それ自身の内に楽しさをもっている.したがって観照の活動は,あらゆるものの中で最も楽しいものだろう」として,知的快楽に基づく哲学的幸福論を唱える(p.80).

「生からもたらされる楽しさは,魂をはたらかすことからくる楽しさである」

p.81

 アリストテレスは,食事や遊戯の楽しさを否定するわけではないが,そのような食事や遊戯そのものの楽しさがあるわけではない.あくまで,それを通じた,魂のはたらきにおいて,楽しさがあるのである.ところで,その魂のはたらきのなかで,最高に楽しいのは,知性や理性を働かせて,思考に没頭したときこそである.それゆえに,理知をはたらかせて観照することから生じる知的な楽しさこそ,すべてにまさる,生きることから生じる楽しさである.したがって,哲学することによってのみ,最高の楽しさがあるのだから,そしてそれこそが幸福なのだから,みな哲学すべきだというのである.

まとめ

 たとえ哲学が「有用でない」と批判されても,哲学は目的が異なるのでその批判は該当しない.哲学は「善いもの」を目的とし,それは,理知的な思考の努力によって,存在する諸事物の本性と真理を観照することにほかならない.むしろ,哲学のみが原理から正しい判断と永続的な法をもたらす点で有益であり,哲学こそ最も楽しい,真の幸福を導く学である.
 以上が,アリストテレスによる,哲学の有用性批判に対する,哲学の擁護であり,哲学のすすめであった.現代に生きるわれわれにとって,これをどう捉えたらよいかは難しい問題だが,現代の状況においても,何か刺さるところがあるのではないだろうか.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?