「0円教育物語」note版⑥

26「学校」という存在
 「学校」について考えてみたい。学校は、小、中、高と公立の学校であれば、基本的には「0円」で教育が成り立っている。授業料は一般的にはなく、これといった入学金もない。もちろん教材費にお金がかかったり、交通費にお金がかかったり、部活動にお金がかかったり、制服買うのにお金がかかったりしてしまうので、それを「0円」と呼ぶことには多少の無理があるだろうと、思われ、必要経費は別途かかるとして、「大枠0円」となっているのが「学校」、特に公立の学校だろう。
 それをすんなり「0円ですね」とは飲み込めない方々が多いだろうと想像できる。たしかに、「0円」ではない。もし、「学校」で取り残されないために塾に行かせ、スマホを持たせ、習い事をさせようもんなら、「0円」どころではない。むしろ、周りまわって、「お金がかかる場」とも言えるかもしれない。
 もしこの「学校」が教育のすべてを担えて、すべての子どもの面倒を見ることができて、誰も困らない教育を成立させられるのであれば、話は済んでしまうだろう。それができるかできないかは別にして、学校の理想の理想の理想の果てには、そんな「理想」があるのではないかと、想像する。
 ただ、「学校」とは、みなさんご存知のとおり、あれだけたくさんの子どもを抱えていて、それを限りある数の先生で指導する環境であり、「そのような理想」に辿り着くとは、なかなかに思えない。ひとクラス30人程度からなるクラスを、一人の担任が面倒を見たところで、すべてを完結させることの難しさは、想像に難くない。先生の能力が足りないとか、学校が無責任だということなんか、遥か遠くに通り過ぎて、「ただ不可能なこと」と言えるだろう。「面倒が見切れないこと」に必ずしも学校側に問題があるわけではない。
 「学校」という存在。その、「学校」のいいところとは何であろう。
 僕は、「自分以外の人間がいる場」であり「自分とは違う人間と集団生活をする場」が、学校ではないかと感じている。そして、「その経験」ができることが、学校のひとつの良さではないかと、思っている。
 自分以外の人間がいること。好きな食べ物を聞けば自分の想定し得ない食べ物を言ったり、自分が嫌いな食べ物を言ったり、好きな有名人を聞けば自分では興味を持たない人の名前が出てきたり、運動が抜群にできる子がいたり、とにかく本を読んでいる子がいたり、計算がとてつもなく速い子がいたり、歴史にこの上なく詳しい子がいたり。自分にはないものをもっている人を見つけて、自分とは違うことを知る。一人の世界であれば、「絶対的」に見えるアーティストはいつまでたっても「絶対的」であり続けるのに、誰かにとっては「そうではない」ことを知る。憧れのアスリートはどの角度から見ても「ヒーロー」であるのに、誰かにとっては「知らない人」だと知る。「自分の世界」がある種「壊される」空間が、「色々な人がいる空間」ではないかと思われ、まさしくそれが「学校」ではないだろうか。その「たくさんの人がいる」ことによって、「自分では思いもよらなかった自分の得意なこと」を発見できる可能性も新たに生まれる。「自分以外の人が、自分の近くにいる」ということは、とても魅力的なことである。そこには「自分以外の視点」が転がっていて、ときに「自分の視点」をより強く感じる場でもある。その時間は、つまり「学校に所属している」ことで「自分の存在」を徐々に感じていく時間となる。その時、その時間が「意味のあるものなのかどうか」は別にして、「振り返るとこうだった」という発見を未来に向けてしている時間、とも言えそうである。
 自分とは違う人間と集団生活をすること。違いを知り、「自分」を認識するだけではなく、「そのなか」で集団で生活をする。これも非常に魅力的なことだと、思われる。
 なぜなら、集団で生活する時間があるからこそ、「違い」が「自分ごと」になるからである。もし、その場限りの出会い、その場限りの付き合いであるならば、その人との「違い」などどうでもいいものにしかなりえない。集団で生活をしてはじめて、その違いが「自分ごと」になり、「自分に関係すること」となる。その違いは、時に、「勝ち」だとか「負け」だとかいった、表現をされることもある。
 「集団」になった瞬間に、「違い」を放っておくわけにはいかなくなる。足が速い子を見れば、「足が速くなりたい」と思うかもしれず、勉強が得意な子を見れば「勉強ができるようになりたい」と思うかもしれず、友だちがたくさんいる子を見れば「たくさんの友だちが欲しい」と思うかもしれない。このような「外に向かっていく感情」が生まれるだろうと、想像される。そして「その体験」を、無作為に選べれた、奇跡の出会いのなかで手にすることができるのは「学校だから」こそのもので、学校はその「絶好の場」といってもよさそうである。
 自分と違う人間を知り、そのなかで集団生活をする。僕は「その時間」で、「自分以外の何かを追い求めることはキリがない」ことを学んだ記憶がある。
 例えば、自分よりも頭がいい子がいたとする。その子みたいになりたいと思ったとする。別のところには、自分より足の速い子がいたとする。その子みたいになりたいと思ったとする。あるところには、自分よりも背の高い子がいたとする。その子みたいに大きくなりたいと思ったとする。自分より友だちがたくさんいるように見える子がいたとする。その子みたいに、たくさんの友だちが欲しいと思ったとする。どれもすべて、「キリがない」のである。
 この「追い求めてもキリがないもの」を追い求める時間は、結構有意義ではないかと、勝手ながらに感じている。もちろん僕は「意識をしていた」わけではないが、何もわからずに、いつの間にか集団のなかに投げ込まれると、「人」はそういうことを思うらしい。そう感じるらしい。「キリのないこと」を追っかけようとするらしい。そしてその体験を「学校」ではできるらしい。「違い」を存分に感じて、「違い」を全力で埋めようとして、でも埋まらないことを知って、それは「キリがないこと」と知る。改めて、「学校」とは、魅力的な場所である。
 僕は、「これ」は「誰かに面倒をみてもらうこと」ではないのだろうと感じている。自分の心が「違い」を認識するところから始まって、自分がそれを「追いかける」体験をして、そして、「自分の心」で処理をしていくものではないかと、思われる。そしてそれは、「無作為な集団」だからこそのものではないだろうか、と思われる。
 自分以外の人がいるということ、そしてそのなかで、「キリのないものを追いかける体験」ができるということだけでも、「学校」は十分に面白い場所ではないかと、僕には思える次第である。

27「学校のせい」とするのはラクで簡単
 教育の問題点を「学校のせい」とすることは、非常にラクで、簡単なことである。たしかに、「学校」が果たさなくてはならない責任はあるだろうし、「それ」を果たしてこそ「学校」なのだろうが、では教育に関する問題点をすべて「学校のせい」と片付けてしまえばいいのかというと、僕は、そこに「大人の無責任さ」を感じてしまう。もし学校が学校の責任を果たしていなかったとしても、「それをただ傍観するだけ」であるなら、それ自体も「無責任」ではないか、と思えてならない。
 学校には学校の良さがあり、学校には学校の限界値がある、その程度の認識が適切ではないだろうか。「学校ができること」の限界値を見越して、「自分には何ができるか」と考えるのが、最もむずむずしなくて済みそうであり、足りないところを僕ごときが補える可能性があるのなら、それはそれで、面白そうである。「無料塾」は「学校」に対抗したり、「学校」を脅かすような存在では全く無く、むしろ、「学校と協力するもの」ではないかと思っている。どこか「では学校は必要ないのではないか」とも解釈されかねない「無料塾」であるが、もし「無料塾」の存在が「学校と対立するものであるのか否か」が議論の焦点になるのであれば、いよいよ公的な教育機関の限界値を痛感するときである。そうではないことを願いたい。そして、きっと、そうではないだろう。
 ただ「学校」が「教育機関」として、多少「頼りなくなっている」側面があるのは否めない。というのも、「学校の授業」だけで学習を成立させられる強者はそうはおらず、基本的には「勉強ができる子」であるためには学習塾に通う選択肢をとる場合が多いと思われる。なかにはいないこともないだろうが、「勉強をできるようにするためには学習塾を頼らざるを得ない現実」があるのは、「学校の頼りなさ」を反映していると言えないこともなさそうである。実際に学校の授業がどこまで頼りないのかは、僕は知らない。「学校」があるにもかかわらず、「塾に行く」ことが不自然ではない時点で、「そう言える部分もあるのではないか」というのが、僕の見解である。
 「学校」が本格的に「頼りなくなって」しまうと、いよいよ「経済格差と学力格差」が「問題化」する。もし、本当に(僕は実際に調査をして、統計をとったわけではない)経済格差と学力格差の関係が「強い」のであれば、「学校の授業」に対して厳しい目が向けられるようになっても、不自然ではない。「塾に行けないこと」以上に「学校が学力を伸ばす場として機能していないこと」の方が、より深刻な問題と言えなくもない。
 だがしかし、である。「塾に行かないと勉強ができない」ことの理由を「学校の授業」だけに見出すことは、ラクであり、簡単である。そしてそんな「ラクで簡単な」議論を大人がしている間にも、子どもたちには「学校」が用意され、塾に行く子は塾に行き、塾に行かない子は塾に行かないのである。「学力格差と経済格差」が「関係のあることかもしれない」状況は、何一つ変わらない。学校に責任を押し付けるぐらいならば、皆で協力して解決をしようとした方が、健康的である。「いかにして協力するか」が求められるところでの「責任の押し付け合い」は、「困っている子」に対してなんと説明をしたらいいだろうか、僕にはわからない。そんなことをしている暇があったら、一人でも多くの大人が「自分にできること」を探した方が、面白くはないだろうか。
 「無料塾」は「学校の頼りなさ」を表現している場ではなく、学校が「手が届きそうで届かない、でも痒いところ」を「専門的にかじろうとする場」だと、僕は思っている。

28「振り返るとこうだった」が学校世界には転がっている
 僕は、「学校」は貴重な場だと考えている。この先何があっても、「学校」自体がなくなることは考えにくく、もちろんなくなってはいけないものである。「教育の機能」を必ずしも果たすことが難しくなっても、それが怠惰によるものなのか、それとも構造の限界によるものなのか、の違いはあれど、簡単に「学校なんてなくなっていい」という議論が進んでしまうことには違和感を感じる。「学校」は必要であり、「学校」は貴重な場である。
 僕は、これまで、学校を「嫌だ」と思ったことはさほどなく、だからといって「行きたい」と思ったこともさほどなかったが、すべての課程を終えた今、「学校の時間」が残してくれたことは意外にも多いように感じている。「今振り返ると、そういえばこうだったなぁ」というのが、ふと、蘇って、自分の方向性を定めてくれることがある。この「振り返るとこうだった」という記憶は、ただ自分が興味のあることや、ただ自分が好きでやることだけではなく、「自分とは違う人間の集団のなか」で、「自分が興味のあることなのかどうか、自分が得意なことなのかどうか分からないこと」を「課される」時間によって、「発見できるもの」ではないか、と思われる。自分が「それが得意だ」とは知らずに「やってみたら楽しかった」記憶だとか、「やってみたら意外とできた」記憶だとかが、「忘れていた、今」になって、突如蘇ってくる、そんなことがある。それは「課される」ことではじめて発見できる、「自分が知らない自分」を見つける機会、とも言えるだろう。「自分が知らない自分」とは、そこまでたいそうなものではなく、例えば、「そういえば持ち物の色は青ばかりだった」とか「そういえば折り紙の時間がめちゃ好きだった」とか「そういえば作文の時間はあっという間だった」とかである。そのときは、ただ課されて、ただやってみて、ただ「楽しかった」経験であっても、「折り紙が好きだった」ということは「一人での作業が好きな自分」の暗示かもしれず、「手先の器用さ」を持ち合わせているのかもしれず、「作文が好きだった」ということは「一人で考えること」が好きな暗示かもしれず、「集団でいると疲れやすい性格」の裏返しかもしれない。そんな風に、「無意識のなかに隠れている自分」を発見するのに、それはつまり「自分について、より詳しくなる」のに、たくさんのヒントをもらえる場が「学校」ではないかと、僕は感じる。他にも、振り返ると自分は、こういう人を好きになっていた、ということも、生きていく上でのヒントとなるだろう。「自分と違う人たち」と生活を、ある程度の期間してみることで、はじめて、「自分の好み」に気がつく。自分が「知っている好み」の確認も、「自分が思いもよらなかった好み」を発見することもあるだろう。
 「できること」がまだ少ない子どものうちに、「できる範囲」にとどまろうとすることなく、あれやこれやと「やってみる」経験がたくさんできる学校は、それ自体「視野を広げる」きっかけとなるだろうと思われる。もしかしたら、うまくいくことばかりではなく、うまくいかないことばかりな経験をすることもあるかもしれないが、それもひとつの「発見」といえる。僕は、「うまくいくばかりの大人」をほとんど知らない。たいていの人間は「うまくいかないこと」に悩んでいる。それは「人生なんてうまくいかない」ことの示唆ではなく、「うまくいかないときに、ではどうするか」を体験する場である。そしてそれは、それなりに「今後」に生かされ、有意義なものではないかと、僕は思う。まずもって、僕は「うまく」はいっていない。そんなものである。見方によれば、学校は「知らないものとたくさん出会うこと」と言えそうである。
 学校の中心に「勉強」があるのもまた、それなりに意味があるのではないか、と僕は感じている。というのも、興味もなければ、面白みもなく、やりたくもなければ、楽しくもないものなど、「みんな」でやろうとしなければ、「あなた」はやらないだろうからである。もちろん、僕もやらないだろうと思われる。ただその「興味」もなく、「面白み」もなく、「やりたさ」もなく、「楽しさ」もないものだからこそ、「知らない自分」がそこに隠れている可能性を秘めている。「自分」だけでは決して侵入しない「そのエリア」のなかを、みんなで探検してみると、意外にも、「自分はこんな側面があったんだ」という発見があるものである。もちろん「やっぱり向かない」ことを再確認する機会になるかもしれないが、それも一つの「発見」である。やってみてはじめて「やっぱりそうだった」は成立し得る。そして、その「やってみる精神」が「自分のできること」を増やそうとする態度である。「できること」だけやっていては、いつまでたっても「赤ん坊」のままである。
 僕は、「学校」に、そんな「意味」を感じている。ただ「そこまでの意味」は必要ないのでは、とも思っている。「学校不要論」は「意味」を求め過ぎている。

29すべてが「きっかけ」である
 「学校」での時間はすべてが「きっかけ」である。「青が好き」と知ることも、「折り紙が好き」と知ることも、「作文が好き」と知ることも、「一人が好き」と知ることも、「勉強は不得意」だと知ることも、「友だちとうまくいかないことがある」と知ることも、すべてが「きっかけ」である。僕はそのように解釈をしている。
 せっかくなので、「勉強」について考えてみたい。例えば、あるテストで低い点数を取ったとする。そして、自分は「その科目が不得意であること」を痛感したとする。ただ、「低い点数を取ったこと」も「それによって自分が不得意だと実感したこと」も、それ自体は問題のあることではなく、「ただのきっかけ」である。というのも、「自分は不得意だ」と知れたのであれば、「不得意なりの」行動をしていけばいいだけである。もちろん、「不得意を得意にしたい」思いがあるのなら、という前提が必要ではある。取れる行動の選択肢とすれば、例えば、「得意そうな子」に聞きに行ってみたり、先生にわからないところを聞きに行ったり、お母さんに聞いてみたり、お父さんに聞いてみたり、おじいちゃんに聞いてみたり、おばあちゃんに聞いてみたりと、いろいろありそうである。「解決したい問題」が目の前に現れたとき、解決しようとしないことには、どうしたって解決し得ないので、その「解決したいことを解決しようとする練習」になる。これから生きていくにあたって、「解決したい問題」に遭遇しないことは、あまり考えられないので、その練習として、何らかの行動をしてみることは、そして「そのきっかけ」を手にできていることは、何とも素晴らしい機会である。「勉強が不得意なこと」は勉強をしなくなれば、大して問題ではないが、「解決したいことを解決しようとする」ことは、いつまでたっても求められる。いや、「求められる」というよりも、解決したいことを放置するよりも、解決しようとした方が、自分の理想に近づいていくと思われる。「自分がこうしたい」という理想を実現できる可能性が、高まるだろうと、思われる。そのように考えると、何となくテストをやって、何となくできてしまって、特に「困った経験ができない」ということが、果たして「良いこと」なのかは定かではない。「困った経験」によって、この場合では「人に聞きにいく」という解決方法を自ら試して、「人に聞きにいく練習」を一回多くできると考えると、「人に聞きにいく練習」をすることなく大人になるよりは、「問題解決の方法の幅」は広がるといえる。そして大人になって、「素直に聞きにいくことができない人」を改善すること、「自分がこうしたい」と思うことへの「近づき方がわからない人」のままでいることは、何だか窮屈である。「人に聞きにいく」ことが「一つの能力」だとするのなら、「勉強が不得意」という能力によって、さらにもう一つの能力を磨く機会とも、解釈できそうである。もちろん「捉え方」は「その人による」ものである。つまり「そう捉えたい人」がそのように捉えれば良いものであるだけのこと、と言えるかもしれない。
 「わからないこと」を目の前にしたときに、周りの「わかっている人」と「自分」を比べるのではなく、「わからない」と言える練習をする。自分が「わからないこと」を否定するぐらいなら、「わからない」と言ってみる練習の機会とする。「そういう機会」が「学校」には多くあるように、僕は感じる。「学校の授業だけでは理解できない」と主張したくなる気持ちは容易に想像できるが、ただだからといって、「学校がだめか」というと、それは判断ができかねる。「自分にできること」を探してみるのも、立派な「学校だからできること」ではないだろうか。もちろん、僕に協力できることがあれば、喜んで協力をしたい。

30思考を止めない
 つまり、学校を「思考を止めない」練習をする場としてはいかがだろうか、という僕からの提案である。
 学校で「この野郎!」と思うことがあっても、「この野郎!」で止めない。「誰々のせい!」ということがあっても「誰々のせい!」で止めない。「悔しい!」と思うことがあっても「悔しい!」で止めない。その一歩先に行ってみる。思考を止めてしまえば、よかったことはただ良かったこと、よくなかったことはただよくなかったこと、できたことはただできたことであり、できなかったことはただできなかったことで止まってしまう。そこで思考を止めてしまうと、「勉強ができる人」が「勝者」となりえ、「勉強が不得意な人」が「敗者」となりえ、「足の速い人」、「背の高い人」が「勝者」になりえる。そこで、「敗者の戦術」の登場である。「敗者」は「敗者」だと認識している暇はなく、それを活かしてしまうのが、賢い敗者である。敗者として賢くあるために、思考を止めない、思考を拡大させていく。もちろんそれは、「敗者」ではない。それはおそらく「良いように解釈をしてしまえ!」ということになるのかもしれないが、その「良いように解釈をする」こともひとつの技術だとするのなら、そしてそれによって、つまらないことのなかに面白さが加わるのなら、僕はそちらを選びたくなる性格である。「社会の何か」を変えようとすることよりも、そちらの方がよっぽど簡単に思えてしまう。もし「いらないから」という理由で、学校を排除してしまおうとするのなら、また新たに「いらないものを探すこと」が始まるだけではないだろうか、と思われる。「あるもの」の活かし方は、それぞれの解釈による、と僕は思う。「あるもの」の活かし方を探し続けるのが「敗者」であり、それはもはや「敗者」ではないのである。
 「思考を止めない」過程において、例えば「人に聞く」行為において、それ自体を笑われたり、教えてもらえなかったり、上手くいかなかったりすることも、十分に考えられる。ただ「上手くいかなかった」ということも発見であり、それによって、「次」が生まれ得る。友達が上手くいかなかったのなら先生、先生が上手くいかなかったのなら母親、母親が上手くいかなかったら父親、父親がうまくいかなかったら、近所のおっちゃんおばちゃんといったふうに、「次」が生まれる。止めない限り続いていくのが「思考」であり、「思考」とは無限大である。続いていく限り、「解決しようとすること」は終わらないのである。どこかで「学校のせいだ」で片付けてしまうのは、少なくとも「あなた」にとって、この上なくもったいない。そうしてしまうぐらいなら、ぜひ「きょうえい塾」に顔を出していただきたい。そんな立ち位置に存在するのが「きょうえい塾」である。大げさに言うと、「きょうえい塾」は、「思考を拡大させる練習の場」である。学校の役に立てるのなら、それはそれで何らかの意義がありそうである。どんな意義かは、僕には、わからない。
 そのように考えると、「きょうえい塾」は、「問題解決の場」と言える。学校に取って代わる存在ではなく、「学校で起きた問題を解決したい人が、解決するためのひとつの選択肢的存在」と言えるかもしれない。つまり、学校と「並走」する役割である。学校では解決しづらい問題を抱えた子どもたちが、「それを解決する過程の練習」を思う存分するための場が、「きょうえい塾」かもしれない。「学校が頼りないから」生まれた空間ではなく、「学校を生きる」ための空間かもしれない。「社会」に抗うための空間ではなく、「社会を生きる」ための空間かもしれない。僕は「そのつもり」で始めたわけではないが、どうやら「そうかもしれない」と思うに至っている。「学校」で、自分のことを「敗者」と勘違いしてしまう子たちが「実は見事な勝者である」ことを知るための場が「きょうえい塾」である。「あなた」の思考の先に、「きょうえい塾」があるのなら、僕にとってそんなに嬉しいことはない。

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