初めての取材のこと

取材をして書く。これを生業としている。2001年からだから、今年で19年目になる。カテゴリーはスポーツ。大谷翔平選手といった誰もが知る有名どころから一般の市民ランナーや学童野球の子供たちまで、幅広くスポーツに関わる「人」を取材してきた。いったいこれまで何人の人から話を聞いただろうか。取材対象者とコミュニケーションをして、表情や仕草を見ながら、言葉を拾う。言ってみれば単純な作業であるが、私にとっては幸せな時間だ。学びの時間でもあり、時に相手の人生に入っていける時間である。

その取材が対面ではできにくい状況になってしまった。3月まではなんとか会って話を聞くことができたが、新型コロナウィルスの感染が拡大し、さらには緊急事態宣言が発令されたことから、当分は電話や電子機器を使っての取材になる。”嗅覚”を使えない分、入ってくる情報も限られてくるが、今はその中でやらなければならないだろう。

私が初めて取材をしたのは2001年5月。16日か17日だったと記憶している。幸運にも縁があって、ライターの名刺を作ってすぐに仕事をもらえることができた。媒体はベースボール・マガジン社の「レベルアップ教本」。この中に「強豪校の練習拝見」というページがあり、その年の春のセンバツで優勝したばかりの常総学院に行かせてもらった。私は編集者や記者を経験してフリーランスのライターになったわけではない。直前はPR会社でサッカーくじ「toto」の広報部門の立ち上げの仕事をしていた。その前はスポーツメーカーで、野球などの競技の経験もあったが、当時はずぶの素人である。編集者同行ではあったが、よくいきなり甲子園優勝校の取材に行かせてくれたと思う。

ライターとしての経験がゼロだった中、心のよりどころとしたのは、高校時代の恩師の言葉だった。お前はものを見る目がある―。神奈川、東京、石川の3校でいずれも甲子園に出場した監督の言葉が支えになった。別の機会に詳しく書きたいと思うが、私は高校に入学したばかりの頃に提出した観戦レポートが評価され、(まだ16の小僧だったにも関わらず)、監督が見に行けないライバル校の試合を代わりに見て、報告や助言をする役割を担った。

監督の信頼を得る決定打はある名門校の”取材”だった。私は次の対戦校に決まっていた学校の練習を見てくるようにと命じられた。ところが到着すると、ちょうど試験休みに重なっていて、グラウンドには誰もいない。(練習はやってませんでした…では帰れないな)と思った私は、その名門校をよく知るであろう近所のパン屋を”取材”。ふだんは何時くらいまで練習しているのか?といったことを聞いた。ただそれだけのことだが、恩師は自チームが甲子園常連校よりもはるかに長く練習していると知り、”勝てる”と感じた。それは恩師にとって自信となり、自信は選手にも伝わった。数多くの高校野球指導者やチームを取材してきた今だからわかるが、こうした”目に見えない力”は大きな武器になる。母校は恩師が1つ目のカギと見ていた名門校との試合を制し、甲子園出場をたぐり寄せた。

さて初めての取材の話に戻る。私にとっての初めての取材対象者は、常総学院の木内幸男監督(当時)だった。高校野球ファンなら説明がいらない名将である。取手二高の監督時代に夏の甲子園優勝に導いた木内氏は、常総学院でも辣腕を発揮し、春も夏も頂点に立った。

緊張しながら、バックネット裏にある監督室兼放送室に陣取った木内氏の横に座らせてもらうと、「やあやあ、東京から来なさったか」と水戸弁で愛想よく出迎えてくれたが、私の顔を見たのはこれっきり。以後はこちらの質問には丁寧に答えてくれるが、グラウンドに向けられた厳しい視線が外れることはなかった。後にこのようなスタイルで取材することは何度もあったが、一度もグラウンドから目を切らなかったのは木内氏だけである。木内氏は時おりマイクを持ち、気が付いたことを指摘する。グラウンドに声が響くやいなや練習は中断。注意を受けた選手だけでなく、他の選手も自分のこととして受け取っていた。チームスポーツである以上、”他人事”はないからだろう。木内氏の厳しい視線と、名将の指摘を受け取る姿勢。そのあたりも強さの秘密であるように感じた。

取材後、木内氏やコーチの方と食事をさせてもらった。グラウンド内とは別人のような温厚な表情の名将を前に、なかなか箸をつけられなかったのは言うまでもない。



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