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なぜ私が予備校講師になったのか②

エピソード (2) 青の正社員時代

東日本大震災があった2011年、私は青い看板が目印の神奈川県の塾で正社員になった。なお、神奈川県には「青い看板」の大手塾が2つ存在するが、どちらで正社員になったのかは、読者の想像にお任せしたい。いずれにせよ、青い看板の塾で働いた正社員時代を、ピカソの若き日々になぞらえて、「青の正社員時代」と呼ぶことにする。

新卒の私は、最も規模の大きい校舎の一つに配属された。そこは高1~高3生全てを合わせて300人を超える校舎だった。神奈川県の学習塾で、校舎規模が300を超えるところは極めて限られており、その校舎に配属されるということは、人事部からの期待も込められていたのだろう。そこで私は非常に思い出深いクラスを担当することになった。それが高2の中堅クラスである。

高2の中堅クラスは、全学年の中で最も難しい。高2は最もモチベーションが下がりやすい時期であることに加え、学習の内容はより高度なものになる。そんな高2の中堅生を、しっかりと合格まで導くためには、並々ならぬ「覇気」と「忍耐力」、そして「経験」が必要なのだ。だが、当時の私は、どのスキルも兼ね備えていなかったのである。英語ができるからと言って、英語を教えることができるわけではない、ということを身をもって証明することになった。

細かいことは覚えていないが、そのクラスは15人ほどでスタートした。異変が起こったのは3回目からだっただろうか。クラスの生徒が1人減っているのだ。4回目もまた減っている。これは経験者にしか分からないだろうが、少人数のクラスで人数が減ると、雰囲気が非常に悪化するのだ。解決策が分からないまま3か月が過ぎ、気づいたら生徒は半分に減っていた。

このままではいけないと思った私は、ある先輩社員にアドバイスを求めた。そのアドバイスとは、「教える内容を絞り、シンプルに伝える」ということだった。私はそのアドバイスを取り入れ、可能な限り簡潔に教える術を模索した。その結果、担当するクラスの学生が徐々に増え始めたのだ。

2011年は、生徒募集が極めて順調であった。おそらく校舎史上トップ3に入るであろう規模の、生徒数であった。その恩恵もあってか、私が担当するクラスは冬期講習の段階で、40人以上に膨れ上がっていたと記憶している(50くらいいたかも)。私は失った自信を取り戻したのだ。だが、その段階ではまだ、「一流講師に求められるもの」が何かを理解していなかった。それを理解するのは、もう少し先の話である。

2012年、新卒2年目の私は、小規模校舎への配属となった。専任講師は私を含めて2人しかおらず、授業に加えて様々な校舎運営業務に携わることとなった。それはそれでよい経験となったが、教えることに集中したいと考えた私は、転職を検討するようになった。そして、様々な偶然が重なり、私は、神奈川県にあるもう一つの「青い看板」の塾に転職することとなった。「青の正社員時代」はまだ続くのである。

さて、転職先の塾は、私にとっては非常に恵まれた環境だった。正社員であるにも関わらず、業務の99%を教える仕事に費やすことができたのだ。転職して2年目には、全学年にて最上位クラスを担当することとなった。ところが、そこでまた私は大きな失敗を犯すのである。

私は、「過度に難しいこと」を生徒に課してしまったのだ。これは上位クラスを担当する新人講師によくあるミスである。例え偏差値が70あろうとも、所詮は高校生であることを忘れてはいけない。もちろんごくまれに飛びぬけて優秀な学生も存在しているが、ほとんどの学生は「基本的な」語彙や文法を「完璧に」身に着けているわけではないのだ。あまりに難しすぎる内容は講師の自己満足である。当時の私は、そこに気づくことができなかった。幸い、ほとんどの生徒は最後まで受講を続けてくれた。ただ、もっと良いものを提供できたと思うと、申し訳ないとも思っている。

さて、講師歴3年半に差し掛かった26歳の夏である。その後の人生を決定的に変えてしまう出来事が生じた。それが、駿台予備学校の採用試験である。私の「青の正社員時代」が静かに幕を閉じようとしていた。

エピソード (3) 「運命の採用試験」に続く。






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