揺れるハンドドリップ

自宅でコーヒーを飲む時は自分でハンドドリップで入れる。
やかんにお湯を沸かし、豆を挽いて、ペーパーフィルターに折り目をつけてドリッパーにセットする。豆はいつも何種類かストックがあるので、その中からその時の気分に合うものをチョイスする。
と書くとすごくコーヒー通みたいだが「浅煎り」「中煎り」「深煎り」くらいの選択肢しかない。

ドリッパーも一応2種類あるけれど、正直そこまでの厳密な違いをわかっているわけではない。今はこっちが流しに出てるからこっち使おう、とかその程度で決定される。マグカップも大きさはまちまちなので、注ぎ入れるお湯の量もまあ適当である。お湯の温度や注ぐ勢いなんかも、一応コーヒー屋さんのブックレットとかに載っている「美味しいコーヒーの入れ方」を基準にはしているが、厳守しているわけでもない。

当然出来上がるコーヒーの味は毎回微妙に違ってくる。すごく好みな時もあれば若干もの足りない薄さに仕上がることもある。すべての項目をきっちり厳密にやっていけば味のぶれはもっと少なくなるはずだし、それが面倒であればコーヒーメーカーを導入するのが間違いないことは、まあわかっている。

どうも自分で入れるコーヒーには、そこまでの完成度を求めていないみたいである。というかむしろ、ある程度の毎回のぶれを期待すらしている気がするのだ。この「ある程度」というのがきっと自分にとって大事なのだと思う。本当に美味しくないレベルでは、やっぱり嫌なのだ。まあ当然だ。

ある程度のクオリティーが保証されている中であれば、自分はきっと100%の完成度よりも微妙な違いやバラつきがあったほうが楽しいのだと思う。たぶんとても飽きっぽいのだ。飽きっぽいのだが、本当にわずかでも毎回違いがあれば、同じように見えても飽きずに楽しむことができるのだと思う。

考えてみればコーヒー以外のことでも、例えば散歩でも読書でも音楽でも、全てにおいてそのような自分の性格というか傾向が反映されているように思う。一事が万事。凝り性のようで飽きっぽいという面倒な性格なのかもしれない。

でもこんなことを書いておいて、昨日はぼおっとしながらやかんを傾けていたせいでとんでもなく薄いコーヒーが出来上がり非常にやるせない気持ちになったので、やっぱりコーヒーメーカーが必要なのではないかと思い始めている。こうしていつも気持ちが行ったり来たりといつまでも定まらないのである。

目指せ書籍化📓✨ いつかライブ会場のグッズ売り場にエッセイ集を平積みにしたいと思います。