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読書がもたらす「想像の向こう側」

さて、前回の投稿では、「読書と疑似体験」について書いていきました。

本を読むことで、疑似体験ができる。


読書は自分の知らない世界を想像させてくれる


どんな職業があるんだろう。
どんな人がいるんだろう。
どんな考え方があるんだろう。

自分は自分。
他人は他人。

だからこそ、(当然ながら)地の文が他人である「本」というものを読んでいくのは、自分じゃない誰かの考え方をトレースさせてくれるわけです。

きっとこういう家庭環境だったらこういう風に考えるんだろうな。

こういう年齢の人はこうやって考えるのかもしれない。

自分とズレがあればあるほど、
その行動の根拠が理解できないこともある。

でもそうやって本を読み、疑似体験をしていくことで、
「誰かの気持ち」がわかるようになっていく。

狙っているわけではない。

本を読むときに「他者の気持ちが分かるようになりたい」と思っている人は少ないのではないかと思います。

ただ楽しいから読むだけ。

それでも、読めば読むほど、
結果的に「人の気持ちがわかるようになっている」気がするのです。

これももはや驕りであり、
結果的には「わかるような気がする」ところから永遠に抜け出せないもの。

だってどこまで客観的に考えようとしても主観の延長線上にあるから。

でも、その主観に広がりがあって、
多くの引き出しがあって、
これまでは細い道を歩んでいたようなものが、
すこしずつ広い道を歩めるようになったならば、
人生は少しだけ楽になるんじゃないかなぁとも思うのです。

そういう役割を、読書はしてくれていると思います。


外側から内面は読み取れない


だってさ、たとえば20代の時に、
50代の人の内面なんて、どれだけわかろうとしてもわからないんですよ。

会社の上司や同僚に、50代の人がいたとして、
どんなにわかろうとしても、コミュニケーションをとったとしても、
なかなか内面を正直に吐露してくれることなんてない。

けれど、読書では、読んでいくだけでその人の内面が手に取るように描かれている。
時にはゾッとします。

そんなことがあるものなのか。
こんな人生もあるのか。
救いようがないじゃないか。

そんなこともあります。

今思いついた中でゾッとしたのは、
加害者家族の話。

自分は罪を犯したわけでもないのに、
加害者の家族というだけで、「そういう目」で見られるようになってしまう。

仕事はなくなり、恋人もつくれず、
素性を隠し、
ようやくうまくいくかもしれないと人生に対して光明が見えたところで、
過去が暴かれ(しかも自分は何もしていない家族の罪が暴かれる)、
また人生が台無しになる。

もちろん、その人が加害者家族かどうかなんて、
普通に生活していたらわかりません。

しかし、もしかしたら自分の周りにも、
こんな風に悩んでいる人がいるのかもしれない。

こんな繰り返しに、自分だったら耐えられるのだろうか。

きっと無理だろうな、なんて思いを馳せてみるわけです。


さらに考えを深めてみる


人は、付き合っていく中では内面の奥底まで分かるわけではない。

でも考えてみれば毎日報道されている事件の数だけ加害者はいて、
その周りに必ず「加害者家族」はいるわけだ。

小説の中の話はフィクションだったとしても、
同じような話は巷に起きているのかもしれない。

こんな風に、日常考えもしなかったことを、
自分の中に想起させてくれるのもまた、小説の面白いところです。

本は、読むことによって、
自分の想像の外側へ意識を連れ出してくれる。

次回は、読書をしていくうえで「自分」が浮き彫りになるということについて書いていきたいと思います。

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

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