見出し画像

聴覚障害者の困りごとに取りくんでいるのでメディアアーティストになりました

ドイツ在住の画家の友達の家に遊びに行った時、こう質問されました。「人が生きるためにアートは必要か?

その時答えた言葉を、僕は後悔しています。「アートがあったら豊かに生きていけるけど、生きるために必要かと言われれば、必要ではない。」と答えました。

それを聞いた、画家の友達のちょっと残念そうな顔は、今でも目に浮かびます。ちなみに今は、人が生きるためにアートは必要であると確信しています。

音はうるさいかうるさくないか

僕は、プロのサウンドデザイナーなのですが、聴覚障害者向けの音が目でわかるプロダクトの開発と事業化をするために、社会人学生として大学院に通っています。(詳細は以下のリンク)

現代のテクノロジーとして、ろう者に聴覚そのものを提供する器具があるのですが、うまくマッチしない場合も多くあるそうです。理由はいろいろあるのですが、一つには、器具や脳神経の特性上、音そのものがうるさい、と感じてしまうことがあるようです。

健聴者は、24時間耳がひらいたまま生活していますが、うるさくても、もう聴覚なんていらない!なんて思うことは、おそらくないかと思います。

聞くという行為は心地よくなくてはならない

これについて、ろう者のご両親のもとで育った、ご自身は健聴者であるNPO法人代表の方が、音を聞くという行為自体が楽しい、心地よい、気持ちいいといったものだから、健聴者は24時間、音を聴き続けていられるのではないか、とおっしゃっていました。

僕もそう考えています。

排泄する時、動物にとって気持ち良さを感じるのは、生きるために必要なことだと聞いたことがあります。仮に、排泄がとても苦痛なものだったら、多くの人は望んで排泄をしないでしょう。

そう考えると、聞く、見る、触るというような人間の感覚に、心地よさや、いわゆるアートを感じる心が伴っていることは必然であり、必要なことなのではないでしょうか。

ふつふつと溜まったアートの心を爆発させる時

開発中の音が目でわかるプロダクトは、人間の感覚を拡張するものです。これがうまく機能するためには、人が本質的に心地よいと感じるものにする必要があります。

僕には命がけで音楽活動をした時期があったのですが、音を仕事にすると同時に、アートをする心を置いてきてしまいました。それでも、いつかアート活動を再開したいとずっと思っていました。

そして、サウンドデザイン以外に、これまで必死に仕事や研究に取り組んできて身についたものが僕にはあります。

そういったものがうまい具合に触媒として働き、ずっとアートをしたいと思ってイメージしていたことが、音が目でわかるプロダクト開発をベースに、サイエンスとビジネスとアートでつながったのです。

まとめ

ということで、ふたたびアート活動をする運びとなりました。メディアアーティスト、サウンドデザイナー、プロダクト開発者など、色々な見方ができる状態となっていますが、要するに、世の中を0.1歩でもよくすることに貢献したいと、本気で思っているということです。

メディアアートの処女作「Soup of Voice - 発生 -」は、落合陽一監修 37.5℃展にて展示させていただき、ありがたいことに高い評価をいただきました。

次回作は、東京国際フォーラムで開催される国際会議「SIGGRAPH Asia」に出展させていただく予定です。


メディアアートの作品や、僕が代表をしている音声Webサービス「hitoRec(ヒトレク)」、音が目でわかるプロダクト開発の進捗などについても、noteで書いていけたらと思っています。

最後に、僕のアート活動の決意表明を込めたアーティスト写真を載せて、今回の記事を締めくくらせていただきます。

決意表明のアーティスト写真

Art Director / Kalun
Photographer/ Kalun
Assistant Director / Hanae Kobayashi
Artist / Shingo Sawada

画像1

投影されている言葉は、僕がアーティスト活動をしていた時のバンド「トコロテンスライダー」の、ファーストアルバムの最初の曲の歌詞です。

キャンバスのような白い衣服をまとった僕がそれを受け止め、消化し、未来を創造していきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?