ナナと母との絆。それぞれの決断(別れの日)
このNOTEで出会わせてもらったローローさん。この方の記事を読ませてもらって知った。この世には喋る猫が存在している事を。
僕自身は実際その猫に会った事もないけれど、ふむふむ…あり得るなと感じた。
なぜなら、その昔上村家でも猫を飼っていた事があるから。ナナと名付けたその猫は女の子で母とだけは意志疎通が出来ていたのを見てたから。
決して会話をしてる訳ではないのだが、母が話しかけると、基本「ニャ~」の返事だが、それが長かったり短かったり音色が違ったりしていた。色んな「ニャ~」を使って返事をしていた。返事をしなくても近寄って来たりとか。その仕草と雰囲気で返事をしていた。
我々男性陣(父、弟、僕)は全くといっていい程相手にされてなかった。特に僕はダメだった。ナナ~と呼んでも見向きもせず、尻をこっちに向けて尻尾の先を揺らしてくれるくらいだった。相手にされてねぇ~。
冒頭の画像が唯一残っているナナの写真だ。
僕が前に書いた「GOEMON no IKIZAMA」の中にもナナは少し登場している。その中でナナの最後も凄かった…それはまた書くかも知れんと書いたので、やっと今回その最後を書いてみようと思う。
僕は猫よりも犬派だった。だった。だった。
ナナとの別れの日から何年か経って、偶然見つけて保護した、生まれてからそう間もない
であろうその黒い子猫と出会うまでは。
二週間程しか一緒に居なかったが、その猫のお陰で猫の可愛さを知った。いつもソフトボールしてたグランドの外周で、その日はミニ駅伝大会があり僕は会社の同僚であり知的なハンデを持つ山下君三浦君と三人で走る為、そのグランドにいた。そのグランドの草むらの中から何やらの鳴き声みたいなのが聞こえるので近寄って見てみると、その黒い子猫だった。うつ伏せの状態でビロ~ンと後ろ足は両足とも伸びきっていて、ほふく前進をしてるような格好をしていた。
ただ、顔は目をむいて生えたての小さな牙をむいてシャーシャーと周りを威嚇している。一目見て僕は可哀想やけど、もうアカンのちがうかなと思った。ちょっと下半身の方は触るの気色悪いなと思った。伸びきってるし、なんかニュルっとしそうで。車からタオルを一枚持ってきて、それでくるんで持ち上げてみた。あ~良かった大丈夫やった。相変わらすシャーシヤー言ってるけど。
もうこうなったら放っておく事は出来ない。
とりあえず連れて帰るしかない。マンションは動物を飼うのは禁止やけど。非常事態やし命かかってるし。きっと嫁(その当時はいた)にも怒られるやろけど。
そして、その黒猫ちゃんに与えた。みるみる元気になって復活した。良かった良かった。
風呂もいれたった。めっちゃ怒ってた。猫は風呂嫌いなんかな? よ~知らんけど。
そして一人一人にお礼を言ってるかのように戯れに来てくれた。可愛いやっちゃで。
その時の写真がこれ↓↓↓
元気になったこの猫ちゃんは、カーテンによじ登りながらブリブリに破り、あっちこっちで爪を研ぎ襖やら家具をボロボロにし、昼間の間は誰も居なくなるので大きな声で鳴いて
鳴き声丸聞こえやし。たった二週間程だったが生きた証しをたっぷり残して、嫁のお母さんに引きとってもらった。猫好きのお母さんで良かった。ありがとう。
だいぶ横道へ大きく逸れたのでナナの話しに戻ります。とは言いつつも残念ながらナナと直接触れあった記憶がほとんどないんだなこれが。という訳で、母に思い出してもらった。「そやな~アンタが吉本新喜劇の人らと野球の試合した時あったやろ?あの時にお父さんから一緒に行こうと誘われたんやけどナナちゃん一人にして長い時間よう放っとかんかったから行かんかったんや。あの時で4歳か5歳やったと思うわ」が第一声だった。
それを基準に遡ってみた。
午前中に宝塚のグランドで試合をして、なんとか勝たしてもらって、次は内場勝則さんのチームと試合させてもらう約束までして、また連絡しますと当時監督されてた帯谷さん(ポットさん)にも言ってもらって、そのまま僕らのバスに乗ってもらって皆でNGKまで送って行って、そのまま新喜劇見させてもらって帰ってきた。メダカさんも、島田一の介さんも、井上の竜じいさんも、全身緑の中條さんも、その時は若手だった川畑さん鳥川さんも、福山雅治モノマネの大山英雄さんもおられたな~。もちろん帯谷さんも。一番初めに帯谷さんじきじきに電話くださって
また試合できると喜んでいたら、その翌年大きな地震が来て(阪神淡路大震災)連絡しにくくなって流れてしもた。その大震災は1995年
平成7年。という事は、吉本新喜劇さんと試合した時で僕は28歳。その2年後の30歳(大震災の翌年)で結婚して間もなく最初の子供を授かった。
まさしく、ナナとの別れの日はその時やった平成8年。1996年。暑い時期やった。
ナナの生涯はたった8年程だった計算になる
それもいきなりだった。
これを書くと皆さんにはどう伝わるか不安な思いもありますが、そのままを書きます。
母にとっては初めての孫。とても嬉しい気持ちとナナとの共存生活にもなって、猫ちゃんの毛が赤ちゃんの気管支に入ると余り良くないから、何か方法を考えなあかんな。という思いが混じり複雑な気持ちやったそうな。
ナナに異変が生じ始めたのは、その次の日だった。それまで全然どうもなかったのに。いつも通り元気やったのに。
その異変も尋常じゃない程だった。急に気が狂ったかのように目をむいて苦しみだした。
僕はそんな事になってるとも知らず仕事に行っていた。親父も同じく。母は車の免許は持ってないので、急にそんな状態になったナナと一緒になでてやりながら、声をかけながら
誰でもええから帰ってくるのを待っていた。
親父が帰って来たので早速にナナを抱いて病院へすっ飛んで行った。
不思議な事になるんやな。病名は、はっきり知らんけど、人間でいう所の「インターフェロン 」っていう薬を注射してもらっていたという母の記憶と「確か脳に異常がある」って先生は言うたという親父の記憶。ちょっとつじつまが合わんけど両方とも正解なのだろうと思う。
それから約一週間、通院したのだが回復はしなかった。
と、病院の先生から上村家に投げかけられた
言葉。その時は僕も一緒に病院へ行っていたので覚えている。つらい決断をしなければならなくなった。重い決断をしなければならないのは母だった。時間は確かではないが、しばらく考えて母は先生に伝えた。
15分ほどでナナの心臓は止まった。
その後、その病院で小さな棺に納めてもらったナナ。その棺の中へ先生が花を添えてくれたと母は教えてくれた。
そして、火葬してもらいに行った所で、また不思議な事があったらしいのだ。僕は以前に聞いたけど忘れてしまってた。
小さな棺が火葬の炉の中へ入る前に最後のお別れをして、入ってからは手を合わせて拝んでいたらしい。そして終わって帰ろうと振り向きかけた時、自分の手にしていた数珠が切れているのに気がついたそうな。その数珠は切れているのにも関わらず手から落ちる事もなく、珠もひとつも落ちなかったそうな。
「あ~ナナも何か言ってくれよんやな」と母は感じたらしい。
その時の数珠今でも置いてあるでと見せてくれた。それがこれ↓↓
摩訶不思議な出来事だった。僕もこれを見せてもらって思いだした「前に見せてもろた事あるな」という始末でしたわ。ナナごめん。
それとな、まだ記録してたのあったわ。って見せてくれた。
どうしてこうもこの動物達は命懸けの恩返しみたいなのをできるのだろう。母のナナには伝えてない気持ちまで汲み取るのだろう。
決して「死んで」とは思っていないのに、なぜそこまでできるのだろう。
アカン、また涙でるわ。ゴンといいナナといい、凄いな君たち。
ゴンがいなくなってからは犬は飼ってないし
ナナがいなくなってからは猫も飼ってないんやで。誰かに話しても信じてもらえへんやろから話した事ないんやけど、一回目の病気(リンパ癌)で抗ガン剤の副作用で病院のトイレで苦しんでいる時に、そのトイレの入り口にナナが来てくれたんや……だとさ。あ~ナナが守ってくれとんやな。ありがとうナナ、お母さん頑張るわって話ししたんやって教えてくれた。絶対それナナやわ。来てくれとったんやわ僕は信じるでと返した。
命尽きてもなお、母との絆は続いているんやなきっと。
これっぽっちもナナは相手してくれんかったけど、母を守ってくれてありがとうナナ。
僕も、あと何年一緒に親子の時間過ごせるかわからんけど、いつその時が来ても悔いのないように今を過ごすわな。
ありがとう ナナ。
おわり
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