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改憲とか護憲とかぐちゃぐちゃ言う前にやることがあるんじゃないの。

憲法記念日間近なので、とりあえず日本国憲法改定の是非についての持論でも認めようかと考える。

結論から言おう。
私は現状においては憲法改定作業自体を棚上げにするべきだと思っている。

理由は機が熟していないから。
というか、誰も機を熟させるための根本的な努力をしてこなかったというのが私の見解なんだが。

いつも思うのは、なんで少数だけで熱くなっているの?てこと。
日本国憲法は、日本という国の根幹に関わる条文たちだよね。それなのに、なんで多くの国民から遠いところにあるの?てこと。
まずは小学校中学校でしっかり勉強する機会を与えようよ、そう考えるわけだ。

私は、3、40年くらい前から「道徳」の授業時間をやめて「日本国憲法」の授業時間を設定すべきだと考えて、周囲にはそれを話してきた。
小学校1年生から3年生までは、各条文の説明を丁寧に淡々とやる。1年で一回りで、3巡する。それくらいすれば、とりあえず条文は頭に残るでしょう。

小学校4年生から中学校1年生までは、日本国憲法についてのディベートを行わせる。条文毎に無作為に改憲、護憲派をシャッフルしつつディベートを何巡か繰り返させることで、改憲、護憲の両派のロジックをそこそこになぞれるだろう。もちろん、勝敗を求めない形にするのは当然だ。更に、全ての条文についてまんべんなく考察する機会も与えることもできる。条文の中にある単語ひとつひとつについて、それが具体的にどういう意味なのかを考えることにもなる。

中学校2年生では他国の憲法について調べさせればいい。中学校3年生ではGHQの示した原案(英文)を翻訳させてみる。

それくらいしたら、中学生卒業時には過半数の者の頭には日本国憲法についての自分なりの見解が芽生えるだろう。

そういう形で「日本国憲法」の授業を続けて数十年経ったら、そこで日本国憲法の改定の是非について議論を始めたら良いのだ。家族間でも意見が異なることが当たり前になることが理想だ。

そんなに待てない、それじゃ手遅れになるなんて、意見もあるだろう。まあ、当然出てくるわね。
そういう連中に対しては私は「それは、あんたらがサボってきたのが悪い。自分たちに都合の良い情報だけを垂れ流すの熱中して、健全な議論が行われるための土壌作りを怠けてきた方が悪い」そう言い放ってやる。そして、更に「日本国憲法改定の是非なんて重大作業を一部の連中の趣味嗜好の掌の上だけで転がされてたまるものか。だいたい日本国憲法の条文についての、吟味なんてことに結論が出ることがおかしい。いつまでも、いつまでだっても、吟味がなされていくのが正しいんだ。例え改憲が行われたって、そこで完結じゃない。今度は、改定された条文が吟味の俎上にあがるんだ。吟味の持続を邪魔するなんて許されないんだ」と続けてやる。

改憲派の意見にしろ、護憲派の意見にしろ、その理屈の中に「絶対的な正義」とか「必ず正しい」とかの文言が出てきた段階で、その意見に対して私は眉に唾を付けて聞いてしまう。
個々人レベルで述べる意見も主張も、それはあくまでも主観的なもの、相対的なものなんだ。
そこに自分の中の正義を、汎用のレベルにまで拡大し絶対視化した段階で、私の中ではその主張が逆に矮小化されてしまう。

改憲・護憲を論じ合うにしても、現時点+この先数十年間での最適解を見つける作業であるべきだと私は考えている。

正直、私の中にも日本国憲法には思うところがあって、いくつかの条文を改定して欲しいとは思っている。健全に議論できる場があれば持論を提示することはやぶさかではない。
そして、健全な議論を経て、正式な手続きにより私の持論が退けられたら、それは仕方がないと考える。健全な議論とはそういうものだ。

だが、何度も言うが、今の日本にはそういう健全な議論を行うための土壌がない。ないどころか、培う努力すら怠けてきた。
日本国憲法について云々できる環境ではないのだ。
日本国憲法制定以降、70年以上もサボってきた結果がこれなんだよ。

だから、この先に数十年かかるかも知れないけれど、まずは環境を整えるところから始めて欲しい。
それが私の意見だ。


後さぁ、これは愚痴だけどねぇ。
人生の大半を終えて、目の前に棺桶が用意されているような連中には表だって憲法議論なんてして欲しくない。
日本国憲法は日本という国でこれからも生きていく人たちのためのものだ。
冥土の土産、人生の思い出とかの自己満足のために扱ってもらったら困るんだよねぇ。

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