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野芥 is 何もない

野芥is 何もない

 野芥まじ何もない。大体「のけ」って読めない。 芥川龍之介が野原でウサギを捕まえたから野芥、って勿論本当なわけない。

 住んでるんだけど不便でしかない。イオンと七隈線の駅くらいしかない。イオンは二階建てで一階にはスーパーしかない。夜遅くに行くとお惣菜と袋入りのサラダが全部ない。二階には薬局とイオンの衣料品売り場とゲームセンターと百円ショップがあるけれど、薬局には何処にでも売っているはずのキャンメイクのコスメがない。衣料品売り場には誰が買うんじゃみたいなダサい服しかない。ゲームセンターには時折マイバチを持った「太鼓の達人」の鬼プレイヤーが現れるらしいけど一回も見たことがない。黒髪で眼鏡がタイプだった百均のアルバイトの渋谷さんはいつの間にか茶髪に髪を染めて、最近は顔すら見ない。多分何もない野芥に飽きたか彼女が出来たか、何でもある都会に憧れて、髪を染めバイトを辞め、何処かに行ってしまって、もういない。私も引っ越しの準備をしている、のに百均に梱包材はない。

 大体野芥に住んでいる意味がない。母親はいるが義理の父の家で私の居場所はない。義理の父とは口も聞かないし話かけても返事はない。彼がいる時は台所で食事をすることも出来なければお風呂の栓も抜かれていて湯船に浸かることも出来ない。母親はそれらについて何も言わないし、私は何故彼女が再婚後の暮らしを野芥で始めたかを知らない。職場から近いから、とのことだが、母親の職場までの道は毎日激混みで、彼女はイライラしないことはない。職場がある町橋本は木の葉モール橋本という商業施設があり、イオンの10倍以上はあり、飲食店もバスの本数も多くて、そちらに住めば良かったのにと思わないこともないけれど私もそこには引っ越さない。橋本は家賃が高く、母親にも私にもその余裕はない。

 野芥駅にも何もない。コンビニなんて気が利いたものもなければ乗り換えの出来る駅もない。天神まで25分かかるし、七隈線は博多駅まで延伸したけど博多駅まで出る用事もない。駅員さんは歳をとった人ばかりでタイプの人はいないし、私はここのトイレで2回落とし物をし、5回吐血したことがあるので目を付けられていて、関わりたくはない。改札を通る時はいつも下を向き、もうすぐ引っ越しでこの重圧ともおさらばだと思うと嬉しいが、私がいなくなった後彼らの目は、何もない野芥の何処に向けられるのかと思うと、気になって堪らない。

 イオン脇の美容室に予約なしで行って髪を切ってもらえた試しがない。小さいが意外と人気店で、この店以外に前髪を500円で切ってくれる店を私は知らないし、前髪以外のカットのクオリティも2000円とは思えない。美容師のお姉さんはシャキシャキとした優しい方で引っ越すんです、と言ったらこれまで以上に丁寧に髪を整えてくれて、あれからまだ一回も髪を切りに行けてない。お姉さんから飴玉を貰ったけど勿体無くて食べられていない。

 そんなこんなで私と野芥駅の思い出というのはあまりなく、4年は住んだし母親はいるけれども故郷、と呼ぼうとは思えない。けれど私が去った後の私がいない野芥は、それでもそこにあり続け、何もないにも関わらず引っ越した後も頭から離れない。新しい町のイオンは野芥の5倍はあって、渋谷さんによく似た駅員さんとキャンメイクのコスメとお気に入りの洋服屋を見つけ、湯船には毎日浸かれるようになったけれども、安くて上手い美容室は未だ見つけられていない。駅のコンビニで菓子折りを買って、橋本までのバスに乗って、橋本で七隈線地下鉄に乗り換えて、と手間だし不便でしかない。けれど今日はふと思い立って野芥まで「帰ろう」としていて、昨夜夢の中で試しに芥川龍之介とウサギを走らせてみたが、野芥には何もないので走り回る余地は沢山あるらしく、楽しそうで何だか釈然としない。家に着くと母親がご飯を作ってくれていて、前髪を切る予約が取れて、駅員さんに会釈されて、何もない癖に野芥にたまに「帰る」癖がついた私が確かにいる、のってよくわからない。



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