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美の来歴㊶ マティスと猫と戦争と       柴崎信三

猪熊弦一郎の「終わらない休日」

 二匹の灰色の猫が明るいブルーの服を着た妻に抱かれて、鮮やかな橙色のソファの上にくつろいでいる。この「青い服」という油彩画は、戦後の1949年の作品である。若い日に心酔したマティスの色づかいをそのまま蘇らせたような、いかにも都会風のしゃれた油彩画だが、敗戦の荒廃からようやく抜け出ようという〈戦後〉の解放感が画面から伝わってくる。ひめやかな幸福感を漂わせた作品である。
 〈猫〉はこの画家が若い日からずっと好んだ身近な創造のモチーフだった。妻の文子とともに一時はアトリエに「一ダース」もの猫を飼い、戦争末期に神奈川県の相模湖のほとりの山村に疎開したときにも猫を連れて移り住んだほどである。
 猫は彼にとって最も親しい家族であり、気まぐれで愛すべき友人であり、理想とした「美しい暮らし」を運んでくるモデルであったに違いない。残されている多くの猫の絵はシンプルな線描のデッサンで描かれた〈群像画〉である。そこではさまざまな猫の表情と行動の移ろいが、コミックのコマ割りの画面のような不安定な曲線のなかに浮かび上がる。多くの巨匠たちが作品に託した〈猫〉へのオマージュと違って、これはおそらく画家が猫という〈家族〉を通して造形した、小さな〈世界〉の眺めなのであろう。

◆猪熊弦一郎(1902-1993)マティスに傾倒しフランスへ留学。
藤田嗣治と親交するが、大戦で帰国すると軍部の動員で
比島コレヒドールやビルマの泰緬鉄道建設など戦争記録画を手がけた。
戦後は一転、ニューヨークで抽象美術やデザインなどの分野で活躍した。

 猪熊弦一郎が90歳で人生を閉じるまでに残した造形は多彩で、油彩画やデッサン、版画、家具などの立体造形から都市施設の壁画などのパブリック・アートにまで及んでいる。しかし、そのいずれの作品の背後には人間とその生活を取り巻く世界の輝きがあり、そこに現実への懐疑や不安の影が入り込む余地はどこにもうかがえない。その天真爛漫イノセントな造形は、彼の創造のジャンルや手法が時代と場所を目まぐるしく変転するなかでもほとんど揺らぐことがない。〈猫〉はその純潔な世界観を映した一つの表徴ともいえる。
 四国高松で教育家の家庭に生まれた猪熊弦一郎は東京美術学校(現東京芸大)に進んで藤島武二に師事するが、教室でモデルを描いているところへ時たまふらりと現れた師は、カンバスを一瞥すると「デッサンが悪い」と一言言って立ち去ってゆくだけである。
 若者は取り付く島もなく途方に暮れるが、対象を正確に描くというだけでは絵は生まれないということをやがて知った。フランスへ留学したのは色彩の魔術師と呼ばれたアンリ・マティスに心酔し、圧倒的な影響を受けたからである。パリから南仏のニースのマティスのアトリエを訪ねたのは1938年、巨匠はすでに70歳になろうという頃である。

〈頭髪もヒゲもアゴヒゲも皆白である。目は美しい透き通る様なセルリアンブルー、薄いテレベルト(緑土色)のワイシャツに煉瓦色のネクタイ、鼠色の明るい洋服、私はワイシャツとネクタイを見た時マチスの色に対してのただならぬ感覚を知った。「やっぱり違う」と私は全身を神経のようにしてこの貴重な時間を感じようとした〉(『私の履歴書』)

 マティスは作品を見てくれる約束をしてくれて、一年後にたくさんの油彩画とデッサンをかかえてパリのアトリエを訪問した。それらをゆっくり見た巨匠は言った。
 「君の絵は上手すぎる」

◆アンリ・マティス(1869-1954)
フランスの画家、パブロ・ピカソと並ぶ20世紀絵画の巨匠。
華麗な色彩による平面の抽象的な造形を展開。「オダリスク」や
「ヴァンス礼拝堂」の装飾などで知られる。


 マティスは彼の作品を前にして「悪くない」と「上手すぎる」を繰り返す。これは巨匠から目の前で宣告された否定の引導である。あまりにも深くうけたその影響は画家を迷路に導いた。フランスで偶然一度だけ会う機会のあったもう一人の巨匠、パブロ・ピカソとのかかわりもまた、同じであった。
 或る日、パリの小さなギャラリーで妻の文子を伴ってピカソの作品を見ているところへ、大型犬を連れてバーバリーの外套を着たピカソその人が突然あらわれた。あみだに被った帽子の下にあの大きな目が光っている。あわてて駆け寄り、名前も名乗るのも忘れて帽子を取ってお辞儀をすると、驚いたピカソも帽子をとってこたえた。
 素直ナイーヴであるということは芸術家にとって幸福なことなのだろうか。大きな才能と出会った衝撃がもたらしたのは、「自分とは何か」という懐疑と混迷でもあった。パリでの留学の若い日々に二人の巨匠と対面して言葉を交わし、自分の作品までも見てもらえるという幸運を手にした猪熊は、それが同時に自分の才能のくびきとなることに苦しむのである。

〈その後の私がマチスのとりこになってしまい、どう描いてもマチス風になってしまう。確かにそれまではピカソ的なところがあった私がいつの間にか「猪熊はマチスだ」という評言に苦しまなければならないほどマチスの姿がはいってしまった。それはアメリカに渡るまで尾を引いていたが、やがて次第に自分を深くみつめるようになった〉

 そのゆったりとした構図も軽快な色彩のリズムも、描いているうちにいつの間にかマティスになっている―。「猪熊はマティスだ」という世評が取り巻いて、それが彼を息苦しくさせるのである。
 大戦の戦雲がにわかにパリに近づいていた。ナチス・ドイツ軍がアルザス・ロレーヌに侵攻して、さらにパリに迫っている。大砲の音が彼方から響いてくるなかで、市民たちは車に荷物を積み上げて郊外に続々と避難をはじめた。モンパルナス界隈に下宿していた日本人画家たちもパリから脱出することを考えていた。その中心になったのが「モンパルナスの寵児」と呼ばれていた藤田嗣治である。
 「われわれもどこかに逃げなくては。弦ちゃん、汽車の切符も手配したし、昼の弁当のチキンも焼いたから、これから一緒に行こう」
 そう言って誘いに来た藤田は、かつて住んだことのある南フランスの村、レゼジーへの移住を手回しよく決めていた。妻の君代を伴い、トランクを二つ持ったおかっぱ頭の藤田とともに、猪熊夫婦はパリを離れた。1939年9月のことであるである。
 レゼジー村にはフォンドゴームという古代遺跡があり、5万年以上前のクロマニヨンの時代に人類が描いたマンモスや馬などの壁画が、洞窟のなかに残されている。
 「ここで石窟の壁画でも見学しながら暮らそうよ。もしパリが陥落して帰れなくなったら、弦ちゃん、俺たち4人で百姓にでもなろうじゃないか」
 藤田はいかにも楽天的にそう言ったが、片田舎の村はすでに国民総動員令が布告されていて、残されているのは老人と女性と子供たちばかりである。洞窟の壁画を探してみて歩く日々が過ぎるうちにも戦火は激しくなり、ドイツが占領したアルザス・ロレーヌなどの地域から貨車に乗った避難民が続々到着して、小さな村はたちまちあふれかえった。
 絵を描くどころではない。滞在資金も次第に乏しくなったのでいったんパリへ戻り、日本へ引き揚げようと藤田は提案して、宮本三郎らとともに一足先に帰国した。

 猪熊夫婦が最後の帰国船「白山丸」でマルセイユから帰国の途に就いたのは、その一年後の1940(昭和15)年の春である。このころ、猪熊がパリ時代に何とか仕上げたかったのが、夫人の友達のハンガリー女性をモデルにした《マドモアゼルM》である。紺青の服を着て両手を組み、意志的なまなざしをなげかける女性像はピカソの「青の時代」を貫く清冽な勁さに重なり、大戦の砲声が背後に迫る緊張がどこからか伝わるようでもある。

◆猪熊弦一郎〈マドモアゼルM〉(1940年、油彩・カンバス)
ミモカ芸術振興財団


 かくしてマティスとピカソという巨匠たちとの思いがけない遭遇と「モンパルナスの寵児」と呼ばれた藤田嗣治の友情に包まれた画家の「フランスの休日」は、迫りくるナチス・ドイツの軍靴の響きに遮られて、二年という歳月のうちにあわただしく閉じた。
〈戦争〉は多くの画家たちの運命を翻弄した。
 大戦の勃発とドイツ軍のパリ侵攻で一足先に日本へ向かった藤田は、帰国するとその売り物だったおかっぱ頭を刈り上げ、丸坊主になって総力戦体制に同調していく。
 軍部の肝いりで生まれた陸軍美術協会の役員になり、戦争翼賛絵画の旗を振った。1940年9月には前年に起きたノモンハン事件の戦闘画を軍から要請され、取材のために陸軍嘱託として中国大陸へ派遣された。日本軍がソ連に大敗して戦局を大きく変えた、中ソ国境地帯の戦場近くに出向いてその記録画を描いた。
 それから、かの伝説的な戦争画となる『アッツ島玉砕』にいたるまで、藤田は中国大陸や仏印各地、シンガポールなどの戦地に赴き、戦争記録画を次々と手掛けた。

〈絵画が直接お国に役立つということは何という果報なことであろう。国民を慰めようとする絵画と国民を強くする絵画とはその差も大なるものがある。未だに世間では戦争画を芸術でないといい、または別個のように見なしている輩も無いではない。戦争画において立派な芸術品を作り出すことは不可能な事ではなく、また吾らは努力して作り出さなければならぬ〉(『戦争画に就いて』)

 藤田は雑誌「新美術」の1943年2月号にこのように記している。
「素晴らしい乳白色」で「エコール・ド・パリの寵児」と喝采を浴びた藤田は、舞い戻った祖国で戦争翼賛美術運動の中心的な役割を担って、皇国日本の新たな顔となった。
 もちろん、後れて帰国した猪熊とて戦争と無縁ではありえなかった。
 日本へ戻った翌年の1941(昭和16)年に軍部から従軍の命令を受けて、まずは文化視察という名目で中国戦線へ一か月ほど派遣された。従軍画家としては翌1942年にフィリピン、続いて1943年にはビルマ(現ミャンマー)へ派遣され、「作戦記録画」と呼ばれる戦線の報告を描くことを求められた。
 フィリピンのマニラ湾に浮かぶコレヒドール島は激戦ののちに陥落した直後で、戦闘で犠牲となった兵士たちの死臭が漂い、破壊されて荒れ果てた風景が南国の強烈な光の中に広がっていた。ひしゃげた自動車やオートバイが道端で焼けただれて、タイヤが転がっている。そこには、明るい色彩が画面いっぱいに散りばめられた、優美なマティスの世界とはほとんど対極の荒廃した戦場の眺めが生々しく息づいていた。
 にもかかわらず、画家はそこに「美しいもの」を見るのである。

〈翌朝、空が白み始めると脳天を射すくめるようなむごたらしい光景が次第に目の前にあらわれ始めた。すさまじいなどというものではない。悲惨という言葉も実態にはそぐはない。酸鼻のきわみではあった。だが半面、それは何と美しかったことであろう。あらゆるものが原形をとどめること影もなく破壊され尽くしている中に、ポンと一つころがっていた兵隊用の缶詰の缶をみつけた。それがまるで宝石のように美しく思われた〉

 「絵描きとは因果な性を持っている。無残な光景といえども、ただ目新しくて、右に左にと視線を泳がせていると、それまで目にしたことのない美しさをつい見出してしまう」と、画家はその経験を振り返っている。
 戦場で機械的なものが死滅してゆくなかで日本兵が一人、突撃してゆく姿を描いた戦争記録画『硝煙の道』を完成させると、続いてビルマ戦線への動員命令が下った。過酷な泰緬鉄道建設の記録画制作が目的だったが、環境はさらに厳しさを増した。小型に粗末なプロペラ機で熱帯の密林をかいくぐり、トラックで最前線の兵舎にたどりつく。一帯はコレラが蔓延しており、衰弱した体でジャングルをたどりながらも、そこで垣間見る猛々しい自然や極彩色の蝶や虫、珍しい鳥は彼の眼を楽しませた。

◆猪熊源一郎〈○○方面鉄道建設〉(1941年、油彩・カンバス、部分)
東京国立近代美術館蔵(米国政府無期限貸与作品) 

 下絵がどうにかできて帰国する段となって、送別の席で部隊長が猪熊に問いかけた。
「こんな戦地にいても、猪熊さんはどうして毎日そんなにニコニコしているんですか」
 画家はこう答えた。
「別にニコニコしようとしようと思っているわけではないが、見たこともない大自然の景色が珍しくて、絵描きとしては幸福です。つらいときでも、まわりの美しいものが目に飛び込んでくると心が安らぐのです」

 敗戦後、藤田嗣治と猪熊弦一郎は対照的な道を歩んだ。軍部の意向を受けて戦争翼賛美術の指導的な立場を担い、戦争協力の責任を問われた藤田は世論に追われるように日本を去った。GHQ(連合国軍総司令部)の協力でニューヨークへ移住したあと、〈エコール・ド・パリの寵児〉の故郷のフランスへ帰化、生涯を閉じた。
 一方の猪熊は戦後、あのマティスの呪縛から自由になって次第に抽象とパブリック・アートといった表現にあたらしい境地を開いてゆく。
 その代表的な作品が、いまも東京・上野駅のホールを飾っている壁画『自由』である。

◆JR上野駅ホールの壁画『自由』


 敗戦後の荒廃した空気の下で、北海道や東北と東京をつなぐこのターミナル駅は集団就職や出稼ぎで上京する人々、都会への夢と失意を抱えて帰郷する人々の交差点だった。
 猪熊はそうした世相をとらえて、北方の猟師や海女やリンゴ農家の人々、都会から東北へ向かうスキーヤーといったこの駅を行き交う乗客たちとその周囲をモデルにして、鮮やかな水色を背景のもとに新たな時代に生きる群像を描いた。1951年、ベニヤ板にペンキという素朴な造形は、いまも上野駅の風景の一部となって穏やかに人々を眺め続けている。
 そのころ、注文を受けて描いた百貨店の老舗、三越の包装紙「華ひらく」のデザインも、戦後の猪熊のパブリック・アートのひとつの到達点であったろう。いまでも使われている柔らかな曲線が描く淡い紅色の上品な造形は、その後に広がる戦後社会の豊かな広がりを暗示するかのような、猪熊の作品世界のもう一つの展開であったに違いない。

◆三越の包装紙「華ひらく」


 戦後、具象と抽象のあいだをさ迷っていた猪熊は1955年8月、妻の文子を伴って日本を離れ、ニューヨーク経由で再びパリへ遊学する計画をたてた。マティスという巨大な影から自由になって、もう一度自分にとっての絵画表現とはなにかを確かめたい―。実に52歳の再出発である。ところが、しばらく立ち寄るつもりで訪れたニューヨークという都市の空気が彼を虜にした。下町の落書きや傷んだ広告のポスター、街角にあふれる商品の宣伝の看板やネオンサイン‥‥。すべてが生き生きとした言葉となって降りかかる。

〈この街は虚飾というかおごった感じがなかった。飾りっ気が何もなく、自分の生活に必要なものだけで済ませている。だから非常に人間臭い。風はいろいろの所でよどみ、発酵しているようだ。空気は汚れ、そこから何かガスさえ噴き出している。よくいえば底に何かがひそんでいる力である。人間のあかや体臭などいろいろなものがまじりあった巨大なかたまりが、ニューヨークなのだった〉

 

◆猪熊弦一郎〈驚く可き風景(A)〉(1969年)

マーク・ロスコやリチャード・リンドナーといった、その時代の米国を代表する美術家と出会うことで、それまでの自作はいかにも弱弱しく映りはじめて、画家はパリへの再訪を断念して米国という新たな天地で抽象の世界に舵を切っていった。
 身近な家族としての〈猫〉に自身の「世界」を見出した猪熊は、米国、そしてニューヨークという戦後の20世紀の文明の大きな拠り所に身を置くことで、それから大きな造形の〈革命〉を生きるのである。
 
◆標題図版  猪熊弦一郎〈青い服〉1949年、油彩・カンバス(部分)ミモカ芸術振興財団



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