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三島由紀夫という迷宮➀ 海と〈乃木神話〉   柴崎信三               

〈英雄〉になりたかった人❶

 そのころ作家の司馬遼太郎は幕末の攘夷派の志士、吉田松陰と高杉晋作を主人公にした小説『世に棲む日々』を連載しているさなかだったから、一九七〇年十一月二十五日の翌日の『毎日新聞』に「異常な三島事件に接して」と題して寄せた論評は、そこから三島由紀夫の死を論じている。

〈三島氏の死は、氏はおそらく不満かもしれないが、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、その点、有島武郎、芥川龍之介、太宰治と同じ系列の、本質はおなじながらただ異常性がもっとも高いというだけの、そういう位置に確乎として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系列にある〉

 戦後日本を代表する華やかな人気作家が白昼、〈私兵〉の若者を伴って東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室を占拠、総監を人質にして憲法改正などへ〈蹶起〉を自衛官らに呼びかけながら果たさず、その場で割腹自決する―。
 しつらえた「楯の会」の制服制帽を身にまとった著名作家が、日本刀を帯びて総監室で繰り広げた事件の衝撃と異常性をめぐって、直後から各界で激しい論議が沸き立ったのは当然である。そのなかで、時を置かずに司馬遼太郎は、三島の自決への思想的な否認をあきらかにした。
 一見して事件は荒唐無稽な自然犯であることは明白であるにしても、それが〈狂〉が招いた文学者としての衰弱の結果である、と司馬はそこで論じた。

〈虚構を現実化する方法はたったひとつしかない。狂気を発することであり、狂気を触媒とする以外にない〉

 司馬はそう事件の背景を見立てた。自裁の当日の論考でありながら、事件の熱気と世論の沸騰から離れて、これを〈狂気〉と突き放したのである。『坂の上の雲』をはじめ日本の近代の「国民の物語」を描き継いだこの歴史作家が、ともに〈戦後〉を歩んできたほぼ同世代の人気作家の、異形の死へ向けたはなむけである。そこには司馬が受け止めた内面の衝撃の大きさを見るべきだろうか。
 もちろん、それを病理学的な意味での〈狂気〉と呼ぶかどうかは留保されるべきである。しかし、戦後の高度経済成長期にあの『豊饒の海』を書き進めるなかで、三島を侵食していった重苦しい「不快の感覚」が〈虚構〉と〈現実〉との境界をあいまいにし、〈蹶起〉につながっていったことは、そのころ三島が書いた多くの文章や言動からみて疑うべくもない。それは戦後の三島のなかに降り積もった、窺い知れぬ〈文学的狂気〉が導いた結果なのであろうか。

司馬遼太郎(1923-1996) 学徒出陣で大陸従軍、戦後、産経新聞記者を経て
 『梟の城』で直木賞。『竜馬がゆく』で菊池寛賞、『坂の上の雲』は近代日本の黎明を
   描いた国民文学と迎えられた。『街道をゆく』『この国のかたち』など。文化勲章受章。
 

 事件から半世紀にわたって、三島由紀夫の自裁をめぐる物語ナラティブはさまざまな変奏のもとで語り継がれ、新たな意味づけが繰り返されてきた。司馬遼太郎が「狂気」と呼んだ三島由紀夫の行動原理は、どこに起点があったのか。
 司馬遼太郎が事件直後に三島の〈蹶起〉と自裁を論じて、これほど明確にその政治的な意味を否定したのは、吉田松陰や乃木希典といった幕末維新の志士から明治国家の軍人につらなる、陽明思想の顕著な影響をそこに認めたからであろう。三島が「蹶起」の拠り所とした〈天皇〉や〈伝統〉も、ゆきつくところはこの「知行合一」の思想と連動してその究極の行動につながっていった。
 事件直後の司馬の論評は次のように続いている。

〈思想というものは、本来、大虚構であることを我々は知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰り返していう思想の栄光がある〉

 これは三島が最後の大作『豊饒の海』のなかで展開した、王陽明の「知行合一説」による陽明学を説いた幕末の国学思想への批判であり、そこに由来する三島の〈蹶起〉の行動哲学に対するはっきりとした否定である。
司馬はさらにこう続けている。

〈ところが、思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、とくに政治思想においてそれが濃厚であり、たとえば吉田松陰がそれであった〉

 幕末の革命思想家であった吉田松陰が、〈国体〉という観念を通して徳川の幕藩体制そのものを打ち破ろうとする精神を、司馬は〈狂〉と呼んだ。
小説『峠』のなかでは、長岡藩で戊辰戦争を戦って死んだ河井継之助を描いて「陽明の徒は万策尽きたときにすべての方略をすて、その精神を詩化しようとするところがある。継之助は詩へ飛躍した」とも述べている。いずれもその革命哲学が〈思想〉と〈行動〉を一挙に接続させる情念で動かされるという点で、それは〈狂〉であり、〈詩〉である、と司馬はいうのである。
 
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 もう一人、司馬遼太郎が三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁に重ねたのが、明治天皇に殉死した陸軍大将の乃木希典のぎまれすけである。西南戦争で連隊旗を奪われ、日露戦争の旅順攻略戦でも、指揮官として作戦に失敗して指揮権を剥奪された。自身の二人の息子もこの旅順の攻略戦で戦死している。「いくさ下手」の軍人として語り伝えられる不運の指揮官は、日露戦勝後の東京の凱旋行進で馬車を辞退し、ひとり騎馬に白髭瘦身を乗せて、伏し目勝ちに粛々と行進の末尾についた。
 乃木を描いた作品『殉死』のなかで、司馬はその乃木の行進の光景に、自分を舞台の悲壮美のなかにおいて酔う「劇中の人」を見出している。
「自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前まで受け継がれてきたごく特殊な思想のひとつであった」と司馬は述べて、「希典はその系譜の末端にいた」と続けている。

〈この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、ときに主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知かくぶつちちしてゆこうという立場のものではない。陽明学派にあってはおのれが是としたと感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこすことによって思想は完結するのである〉

 〈いくさ〉というリアリズムのなかに自身を置きながら、そこに〈詩〉を探り、美的な生き方を貫いた乃木希典は、明治天皇の崩御に際して妻とともに殉死した。指揮官として戦場での過ちを演じながらも、乃木は明治帝からの手厚い寵愛を受けた。ここには「劇中の人」となって自刃した悲傷の将軍がいる。

乃木希典(1849-1912) 長門長府生まれの軍人。西南戦争で連隊旗を奪われ、
    日露戦争では旅順攻略戦に失敗したが、その求道的な生き方が明治天皇の篤い
    信頼を得た。陸軍大将、学習院院長などを経て、明治天皇崩御に夫人と殉死。

 司馬は三島事件の二年前、日露戦争を中心に据えて近代日本の黎明を彩る群像を生き生きとえがいた長編小説『坂の上の雲』の連載を始めている。のちに二〇世紀の日本を代表する国民文学と呼ばれるようになるこの作品のなかで、日露戦争の旅順攻略戦に失敗した第三軍司令官、乃木希典の指揮官としての非才と、その殉死にいたる謎めいた精神主義を、浮き彫りにしている。
 連隊長を務めた西南戦争では、田原坂のいくさの作戦を誤って西郷軍に連隊旗を奪われるという失態を演じた。日露戦争では旅順攻略戦の司令官として要塞の正面攻撃に固執し、海軍が求める二〇三高地という戦略拠点への攻撃を無視し続けた。その結果、三回の攻撃で自軍から一万人もの死者を出した。あまっさえ、従軍していた自身の二人の息子もこの戦闘で失い、指揮権を剥奪された。指揮官としての凡庸さ、というよりも、情報を集めて兵站と作戦を機敏に動かしてゆくべき戦争のメカニズムを無視した、ある種の浪漫主義がそのような悲劇的な場面に自らを追い込み、また乃木自身もそのような場面の「劇中の人」となって、演劇的シアトリカルな悲劇性を高めていったというのである。
 悪戦する乃木に代わって旅順攻略を指揮するために、南満州鉄道で南下していた満州軍参謀長の児玉源太郎は、車中で乃木軍が二〇三高地を奪取したという情報を受けて大連駅で途中下車し、部下の田中国重少佐とホテルでシャンパンとカツレツで乾杯した。すると、そこへ第二報が届いた。
 『坂の上の雲』にはこうある。

〈「はい。第三軍司令部の大庭中佐殿からであります。二〇三高地は今未明、敵に奪還されたそうであります」、
「なにィ」
児玉は怒気で真っ赤になった。フォークとナイフを投げ出し、それが皿に当たってむこうへ飛んだ。
「田中、洋食なんぞ食っているときか」
と、田中と洋食にあたりちらし、帽子をつかむなり立ち上がった〉

 乃木は休職中でも陸軍大演習には必ず参加して、明治帝のまなざしに触れた。帝は作戦の失敗などで乃木の更迭論がでると、「乃木を代えるな」と擁護した。
 乃木の詩人的資質は、生涯のいくつかの場面で鮮やかな記憶を人々にもたらしている。『坂の上の雲』で、物語の重要な役割を占める乃木は軍人としての蹉跌を繰り返して日露戦争から帰還したが、東京での凱旋行進では馬車を辞退して瘦身を単騎に乗せ、黙々とひとり行進の末尾についた。
 その姿は「悲運の武将」の印象を国民にひときわ、深く刻み込んだ。
幕僚たちとともに戦勝の報告で宮中へ参内し、帝の御前で復命書をそれぞれ読み上げる場面では、乃木ひとりが自筆の名文を切々と読んだ。
 「‥‥弾ニたおレ、剣ニたおルルモ皆、陛下ノ万歳ヲ喚呼シ、欣然トシテ瞑目シタルハ、臣、コレヲ伏奏セザラント欲スルモあたハズ。然ルニ斯クノ如キ忠勇ノ将卒ヲ以テ旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天付近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ依リ、退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ‥‥」
 司馬は『殉死』のなかで、その情景をこのように描写している。

〈希典は読み続けてついに絶句し、うなだれ、嗚咽しはじめ、声がしだいに高くなり、他の諸将らは座に居つづけるに堪えられなくなり、上座の大山巌が一堂に目配せをして一時廊下へ遠慮したほどであった〉

 明治帝の崩御に際して、妻を伴い割腹して自裁する乃木希典を主人公に、司馬遼太郎が『殉死』を書いたのは、三島由紀夫が〈蹶起〉と自裁を遂げる三年前の一九六七(昭和四二)年である。
 日露戦後、現役の陸軍大将にして伯爵の爵位をうけ、また学習院院長と宮内省御用掛という栄爵に迎えられながら、明治帝の崩御に殉じて妻を伴い自裁を遂げる、その幾重にも屈折した歩みは、どこからもたらされたのか。
知識と行動を直接連動させる、江戸幕末の陽明思想が掲げる「知行合一」の行動哲学と、明治帝という〈主君〉に寄せる中世の武士の〈郎党的親愛〉の残照が乃木を動かしていたと、司馬は見る。その〈いくさ〉に対する無器量も、その折々の悲劇的な振る舞いも、ことごとくそこに由来する、と―。
 大坂の町奉行の与力であり、「陽明の徒」の先駆けであった大塩平八郎は、凶作が関西地方を襲って窮民化した人々の救済を幕府に求めたが動かず、家財を売るなど私財を投じてもなお苦境が続いたことから天保八年、四十三歳で武装蜂起した。「大塩は奇矯な性格のもちぬしではなく、その現職当時は能吏といわれたほどの男であり、さらに若気ともいえぬ年齢でもあった。齢は四十三になっていた。それほどに常識世界の男が、まるで衝動のような突然さで、反乱をおもい立った」と司馬は書いている。

〈この学派にあっては動機の至純さを尊び、結果の成否を問題にしない。飢民を見れば惻隠の情をおこす。そこまでが朱子学的世界における仁である。陽明学にあっては惻隠の情をおこせばただちに行動し、それを救済しなければならない。救済が困難であってもそれをしなければ思想は完結せず、最後は身をほろぼすことによって仁と義をなし、おのれの美を済すというのがこの思想であった〉

 乃木は自裁の二日前、すなわち一九一二(大正元)年九月十一日の朝、赤坂の自宅を出て皇居に参内した。皇孫だった十二歳の裕仁親王に拝謁するためである。幼い三人の親王たちが居並ぶ前に、乃木は手にしてきた儒学者、山鹿素行の『中朝事実』を示して、そのあらましを説いた。
 もちろん、幼い親王たちにこの難解な書誌への理解が及ぶはずはない。それでも「それ、天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり」という山鹿素行の思想の片鱗を伝えておきたかったのである。
講義が終わると、親王裕仁は学習院院長の乃木に向って問いかけた。
「院長閣下は、どこかへ行ってしまうのか」
 乃木は答えた。
「いいえ、乃木は何処へも参りませぬ」
 司馬はこの場面を描きながら、乃木の心のうちをこう説いている。

〈希典の思想と精神はつねに劇的なものを指向し、その行動と挙動は自然劇的なものを構成しがちであったが、その生涯においてこの時ほどそうであったことはないであろう〉

 『殉死』を書いてから三年ののち、一九七〇(昭和四五)年十一月二十五日の三島由紀夫の〈蹶起〉と割腹自裁のすぐあとに新聞社から論考を求められたとき、司馬遼太郎がこの作品で描いた乃木希典の自裁をすぐ想起したであろうことは、想像するまでもない。

〈かれに残された警世の手段は、死であった。かれは自分のおよそ中世的な殉死という死がどのような警世的効果をもつかを、陽明学の伝統的発想を身に着けているだけに、このことのみは十分に算測することができた〉

 作家である三島由紀夫の自裁は「楯の会」という私兵集団を従えた一種の心中死である。市ヶ谷の総監部のバルコニーでかれは「天皇陛下万歳」を唱えたが、現実の昭和天皇に対しては戦後の〈人間宣言〉にはじまる〈象徴天皇〉への忌避の感情を強く抱いており、殉死した乃木が明治帝との間に結んだ、中世の「主君と郎党」に似た情愛は、そこには微塵もなかった。
 〈天皇〉という表徴を掲げた「警世の手段」としての〈死〉の相似形だけが、時を隔てた二人の自裁者を貫いているのである。しかし、司馬が二人の死への衝動の底に合わせ見ているのは、「動機の至純さを尊び、結果の成否を問題にしない」という、〈陽明の徒〉の悲劇的な行動倫理にほかならない。
 旅順要塞攻略戦でひたすら旧弊な正攻法にこだわって累々の死者を出し、作戦指導に批判が高まると、乃木は敵弾が飛び交う中を「前線視察をしてくる」と単騎で自殺的な行動をとろうと試みた。「動機が美しければ結果は問わない」という陽明学的な処世観は、あらゆる場面で彼の行動にあらわれた。
 それは三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁においても、同じような行動倫理としてはっきりと浮かび上がる。日本の伝統の回復と憲法改正による自衛隊の国軍化などを求めて、私兵集団の「楯の会」の若者を引き連れて陸上自衛隊東部方面総監部に乱入し、総監を人質にして自衛隊員にクーデターへの〈蹶起〉を呼びかける。
 すべてが非合法で客観的にも社会的な成功への可能性をほとんど望めないにもかかわらず、かれらの信じる「動機の至純さ」がすべてを容認するのである。そして、計画がいかに荒唐無稽で失敗が自明であっても、〈割腹〉による自裁は十分な警世的効果をもたらすであろう―。

三島由紀夫(1925-1970) 1970年11月25日正午すぎ、東京・市ケ谷の
陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーで、自衛官らを前に〈蹶起〉の演説。

〈蹶起〉がバルコニー前に集まった自衛隊員から罵声をもって迎えられ、空想的なクーデター計画が失敗して単なる刑事事件として処理されることを、三島は予め十分に想定したうえで、その日の行動に踏み切ったのであろう。いわば失敗を前提として象徴的な行動に命を賭けるというということを、三島ははっきりと直前の著作などで述べている。

〈無効性に徹することによってはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、そこに正義運動の反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考える〉(『行動学入門』)

 これはまさに「動機の至純さを尊び、結果の成否を考えない」という、「陽明の徒」の行動原理そのものにほかならない。
 
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 司馬は事件の翌日の論考を「三島氏のさんたんたる死に接して」と書き出し、その自裁が彼の文学的な敗北にもつながっていることを表白した。
しかし、その後段でかれは思いがけない三島への賛辞を掲げたうえで、その死を惜しんで手厳しい三島の自死への批判の文章を回収している。

〈三島氏ほどの大きな文学者を、日本史は数すくなくしか持っていないし、後世あるいは最大の存在とするかもしれない〉

 ここで司馬が三島の文学的な大きさをあかす〈名作〉として挙げているのが、一九六三(昭和三八)年に書き下ろした小説『午後の曳航』である。
文芸作品が読者にもたらす陶酔感ユーフォリアという物差しで見れば、たしかにこの作品はあまたの三島の小説のなかでも有数の蠱惑的な魅力をたたえた作品の一つ、ということができるかもしれない。
 舞台は一九六〇年代の横浜・山手にある西洋館である。
 元町で輸入洋品店を営む未亡人の黒田房子がある日、十四歳の一人息子の登と住む家に外航船の船員の塚崎龍二を伴って帰宅する。登は二人の情事を押し入れから覗き見することで、世界の虚無を確かめる。

〈突然、あけひろげた窓いっぱいに、幅広の汽笛が響いてきて、薄暗い部屋に満ちた。大きな、野放図もない、暗い、押しつけがましい悲哀でいっぱいの、よるべない、鯨の背のように真黒で清らかな、海の潮の情念のあらゆるもの、百千の航海の記憶、歓喜と屈辱のすべてを満載した、あの海そのものの叫び声がひびいてきた〉

 登と友人の少年たちの仲間が構想する〈世界〉に突然闖入してきた塚崎は、かれらにとって航海を通して世界中の光栄や悲哀に身を浸してきた〈英雄〉であった。その英雄がある日、海から上がって母と結ばれ、彼の新たな〈父〉となって暮らし始めるのである。少年たちがつくる小さな〈王国〉に招かれた〈英雄〉は、その栄光に満ちた海の上の輝きと港々をめぐるの日々を振り返り、語り聞かせた。

〈道の風土の幻と、白ペンキ塗りの航海用語に取り囲まれて、登は龍二と共に、遠いメキシコ湾や、印度洋や、ペルシャ湾へ、たちまち運び去られるような気がした。すべては目の前にあらわれたこの本物の二等航海士のおかげだった〉

 その〈英雄〉が輝かしい海を見捨てて、〈父〉という俗物になる。
 空虚な世界を統べる〈王国〉の規範に基づいて、六人の少年たちはこの単純で美しい世界の秩序を裏切って陸にあがった〈英雄〉に最も重い処罰をくわえること決めて、実行に移してゆくー。すなわち、毒殺である。
 これは十四歳の少年の目を通して〈海〉や〈船〉や〈夕焼け〉といった抽象的な「美」の王国から追放されてゆく〈英雄〉の反語的な物語である。
 司馬が三島のこの小説に見出したのは、〈美〉という観念を通して六人の少年たちがたくらむ〈犯罪〉を象徴的に描いた復讐の物語の巧みさと、その豊かなイメージの広がりである。それは〈美〉という観念が文学作品のなかでは自律して運動し、作者の現実や社会的な規範など〈外部〉の構築物をとははなれて仮想的な〈世界〉を創り出す、芸術作品の本質にかかわっている。
 司馬はここで「三島氏の狂気は天上の美の完成のために必要だったものである」と述べて、「そのことは文学論的に言えば昭和三十八年刊行されたかの名作(まことに名作)『午後の曳航』に濃厚に出ている」と論じた。

〈この小説は他者を殺す。少年たちが精密な観念論理を組み上げ、その観念を「共同」のものにしたあげく、その論理の命ずるところによって、現実的になんのかかわりもない一人のマドロスを殺す、そういう主題である〉

「午後の曳航」取材時の三島(横浜港、1962年) 写真・川島勝

 『午後の曳航』に対して繰り返し「まことに名作」と称賛オマージュを重ねたところに、司馬がひそかに三島のこの作品に込めた、格別に深い感情移入が浮き彫りにされている。
 芸術作品の自律性から生まれた美のなかにこそ、文芸の王道があるという司馬遼太郎の思想は、この作品のあとから三島が次第に〈行動〉を主題にした〈現実〉に絡む作品に向かい、やがて虚構と現実の行動との境界を見失って〈蹶起〉に至ったという経緯を考えると、重い意味を伴ってくる。
 少年たちが牢固に組み上げた〈海〉をめぐる観念によって、〈英雄〉であることを放棄した一人のマドロスを殺すという、この神話的な物語に、司馬はなぜそれほど大きなまなざしを注いだのだろうか。
 物語の舞台として選ばれた〈横浜〉という都市が持っている、自由で開放的な風土と空気をそこに重ねると、一つの背景が浮かび上がる。

〈たしかに、このまちは日本の他の都鄙とひと異っている。都市に含有されている「成分」というべきものが多様で、こういうまち、、に育って成人したひとびとは、倫理的な骨ぐみや美的な皮膚感覚、さらには自己のなかの世界観が、どこかちがってくるにちがいない〉(『海と煉瓦』)

 べつのところで司馬は、この作品を生み出した横浜についてこう記している。海に抱かれた〈港〉という装置を背景にして広がるこの街の歴史こそ、三島が『午後の曳航』に造形した象徴的な物語の揺籃とみるのである。

〈三島由紀夫はその生い立ちにおいて横浜とは無縁だが、その「午後の曳航」において港の背後の台上に成立した富裕な階層のもつ気分が、ある母子の特殊な状況を通じてみごとに描かれている。その台上の家はつねに外国船の出入りする港が足もとにあり、非日本的なものが、台所から子供部屋、若い母親の寝室にいたるまで潮風とともに満ちていて、世界というものの華やぎと物憂さが、住む人の大脳のひだにまでしみ入っているようである〉

 司馬遼太郎にとって、人間の〈思想〉がもともと持つ自律的な運動によって仮想的な〈世界〉を構築することこそ、文芸の本来の役割があるのであって、文学における〈美〉もそれを現実の目的に直に応用することは否定されなければならない。それを〈行動〉と直接結びつけることで現実に働きかける陽明学的な世界像は、明らかに自身の文学観とは異質なものであった。
 乃木希典の悲劇的な行動哲学はその延長線の上にあり、三島由紀夫の演劇的な自裁も、そのあいだにわたる〈詩的〉な跳躍の失敗だというのである。

〈私は昭和二十年から三十二年頃まで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。ある種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑、自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった〉

 三島は自裁の五カ月ほど前に書いた『果たし得ていない約束』という文章のなかで、この自律的な芸術至上主義の空間から離れていった動機を、自身の冷笑主義からの決別、と述べている。
 この「昭和三十二年」という時点は、ちょうど『金閣寺』という芸術至上主義の傑作を書き上げた直後である。それから『午後の曳航』を書いた昭和三十八年にいたる時間は、三島が戦後社会を素材にして才気にあふれた小説や戯曲を次々に発表し、映画や演劇にめざましく活躍し、メディアの寵児となってゆく、いわば〈戦後〉という迷宮の中心を謳歌した時代である。
果たしてなにが、彼を「シニシズムとの闘い」に赴かせたのか。
 「大人しい芸術至上主義者」を目覚めさせたきっかけは何だったのか。
 そして彼がなりたかった〈英雄〉とは何だったのか。

〈あの海の潮の暗い情念、沖から寄せる海嘯の叫び声、高まって高まって砕ける波の挫折‥‥暗い沖からいつも彼を呼んでいた未知の栄光は、死と、又、女とまざり合って、波の運命を別誂えのものに仕立てていた筈だった。世界の闇の奥底に一点の光があって、それが彼のためにだけ用意されており、彼を照らすためにだけ近づいてくることを、二十歳の彼は頑なに信じていた〉

 三島が好んだ〈海〉という観念と、〈英雄〉の失墜という主題を交錯させて鮮やかに描いた『午後の曳航』のたくらみは、みずからが行動者となって〈英雄〉への道へ走り出す、その後の作家の大きな分岐点であったのかもしれない。                      =この項終わり

 ◆標題図版 横浜港のシンボル、横浜税関のイスラム風の塔屋


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