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column●詩人つか・こうへいがいた頃 ◆柴崎信三

*雑誌『悲劇喜劇』(早川書房)2020年11月号掲載

 人は誰でも人生のある刹那(せつな)に詩人となる。

   だからその昔、〈詩人つか・こうへい〉とたまたま私が出会ったのはとりたてた出来事ではなかろう。出会った、というのは正確ではない。「見た」というべきか。
 1968年の初夏の日曜日、正午前に渋谷道玄坂の喫茶店「サンパウロ」に現れたつかは例の長髪にサングラス、下駄を履いていたような記憶がある。学生同人誌『三田詩人』の定例会議に遅れてやってきて、「どうも」とか口ごもりながら作品の原稿を差し出すと、さっさと踵(きびす)を返して立ち去ってゆく。聞けばこの春文学部に入ったばかりで、最年少なのにペンネームをもち、態度は傲慢不遜。それでも仲間内での作品の評価は高く、その日も「つか君の作品ははいいね」と早々掲載が決まった。

 ベトナム反戦や大学自治を巡って激しい学生運動の熱気が世界を包んでいたが、GNP(国民総生産)世界第二位、実質経済成長率14・2%の足元には〈昭和元禄〉と呼ばれたユーフォリアが漂っていた。
 手元にあるちっぽけなこの学生詩誌のページをいま繰ってみれば、どの作品にもそうした時代の空気の下で閉塞する〈私〉を探る言葉で埋め尽くされている。経済学部や法学部の学生運動挫折組が半数、文学部の仏文を中心とした文学青年組が半数。個人の観念と社会を結ぶ言葉への渇望が行間にも溢れているのは、それだけ豊かさの下の〈私〉と〈状況〉との齟齬(そご)が切実に実感されていたからではなかったか。
 そのなかで「つか・こうへい」の詩は良くも悪くも突出していた。

〈白鳥座5000億光年の彼方/ミルキィウェイ/乳房は砂のように指の間から落ちていく/残忍な唇は執拗にシルクをはう/四肢は走る/血まみれの情念は一気に胸の隆起をジャンプする〉(「ミルキィドライブ」)

 エロスをうたう言葉はどこか月並みではありながら、リズムとメリハリがあって視覚的な喚起力を感じさせた。
 しかし、一年余りの活動で三篇ほどの作品を発表した後、つかはこの同人誌を「かたわの集団」とやりこめて〈詩人〉を返上し、演劇に転じたことをのちに聞いた。
 劇団「仮面舞台」で学生演劇を始めたころ、慶応の日吉校舎でヘルメットに角材を持った全共闘の学生から「この大事な時に女とちゃらちゃら芝居の稽古なんて恥ずかしくないのか」と怒鳴りつけられた、という経験をのちに彼は繰り返し記している。自分が在日韓国人二世という「店子(たなこ)」に過ぎないのに、それはなかろう、と。
 〈詩人〉のころのつかは、社会を覆う反戦や体制批判の奔流についてはもちろん、自分の出自にもほとんど沈黙した。むしろシニカルに眺めていた風情がある。
 けれどもその後、劇作家、演出家、劇団主宰者としての歩みのなかで一貫した主題にしてゆくのは、人間の〈業(ごう)〉としての「差別」や「格差」や「対立」を巡る倒錯した笑いであり、哀しみであり、愛憎であった。目まぐるしい高度成長期の日本の現実から半身を引いた韜晦(とうかい)の先で、来歴のなかに抱えてきた〈禁忌(タブー)〉を逆手に取ることによって、あの外連(けれん)の塊のようなつか演劇が産み落とされていったのだろう。
 東大安田講堂の封鎖解除で学生運動は次第に沈静化して内向し、翌年の1970年は大阪万博の底が抜けたような祝祭気分と、自衛隊に乱入した三島由紀夫の割腹自決という驚天動地の即興劇で暮れた。
 〈つかこうへい〉の名前と再会したのは『熱海殺人事件』で岸田戯曲賞を受賞した1974年ごろだったろうか。
 あさま山荘事件や庶民宰相田中角栄への喝采と「ロッキード金脈」に端を発した失脚など、駆け出しの記者として取材に駆け回る慌ただしい日々のなかで、ある日同僚が「めちゃくちゃに面白い芝居らしいけど、つかこうへいって知ってるか」と聞く。「おお、あのつかか」と、映画や演劇好きの数人を誘って出かけたのが紀伊国屋ホールの『熱海殺人事件』だった。おそらく1976年のことであろう。
 通路まで観客で埋まったこの芝居には心底圧倒された。当時寺山修司も唐十郎も黒テントも見ていたが、それらとも異質な「虚実が反転した笑い」の衝撃に、これは何なんだ、という密かな呟きが漏れた。
 尾崎紅葉の『金色夜叉』が下敷きになってはいるようだが、物語は全く異なる。
 熱海海岸で若い女工が殺害され、現場近くにいた同僚の工員、大山金太郎が容疑者として逮捕される。しかし捜査は難航、警視庁の敏腕の部長刑事、通称くわえ煙草伝兵衛こと木村伝兵衛と富山県警から応援に派遣された刑事、熊田留吉、それに婦警のハナ子が容疑者の取り調べにあたる。
 彼らが目指すのは容疑者の犯行の自白ではない。社会の片隅に生きる若い男女が希望を見失って相手を死に至らせた凡庸極まりない事件を、背景や美学を磨き上げることによっていかに華麗な物語に仕立てるのか。捜査官たちはあの手この手で金太郎を誘導して、ついに「海が見たい」という極めつけの動機を吐露させる。
 終幕、伝兵衛は警視総監に報告する。

 〈ムルソーの一発の銃声がその硝煙によってでしか、あまりにもまぶしすぎる太陽と訣別できえない現代人の苦悩を指し示しているものであるとすれば、それを嘲笑するするかの如く、今回の熱海殺人事件は死ぬべくしてその役割を全うすべき山口アイ子はどこにも在らず、大山金太郎を犯人と仕組むいかなる構造をも、日常に還元することを許さないのであります〉

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◆長谷川康夫「つかこうへい正伝 1968-1982」(新潮文庫)

 この年、日本の人口は戦後生まれが半数を突破し、自らを「中流」と意識する人々の割合が90%に達している。同質的な中流社会の圧力がふくらんでいた。
 中卒で片田舎から上京し、狭苦しい独身寮に身を置いて工場勤めの職工として働いていた犯人の大山金太郎には、福岡県嘉穂郡嘉穂町牛隈という草深い故郷に生まれて、在日二世として生きてきた当時のつかの内面が投影されているはずである。
 『熱海殺人事件』では警視庁の木村伝兵衛が工員の大山金太郎を「立派な犯人」に仕立てた。『飛龍伝』では東北出身の機動隊員と全共闘の女性闘士の禁断の愛が描かれた。『広島に原爆を落とす日』で米軍の原爆投下機に搭乗する日本の海軍少佐、ディープ山崎も『蒲田行進曲』で銀幕のスター、銀ちゃんの犠牲となって生きる大部屋俳優ヤスも、戦後日本の豊かな社会の底に息づく、差別や対立や格差を裏返したつか演劇の隠された裏ヒーローである。

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 ◆月刊『悲劇喜劇』2020年11月号(早川書房) 〈没後十年 つかこうへいの今〉

在日韓国人二世という出自をつかは特段秘するわけではなかったが、積極的に語ることもしなかった。しかし、主宰する劇団を解散したのちの1990年、著書の『娘に語る祖国』のなかで、初めてそのことを社会に向けてあからさまにした。
 そこでは彼が『熱海殺人事件』を持って初めて韓国を訪れ、現地の役者たちによって上演した経験をもとに、生まれた娘のみな子へ語りかける形で「韓国人」であるわが身が改めて問い直される。入国に際してソウルの空港で入国審査の係官に「韓国人なのになぜ韓国語を話さないのか」と問い詰められて逆上するなど、二つの〈祖国〉に引き裂かれた心の裡が、あのはじけた文体で変幻自在に語られる。これも例の「口立て」の手法で書かれたのだろうか。
 ―子供のころ差別を受けなかったのかと問われて「そういうのはなかった」と答えてきたけれど、それは見栄で「本当はあったのです」。男気は並みの日本人よりはあるが「きっとこれは、パパの在日韓国人としての防衛本能のあらわれで、せめて義理人情ぐらいを日本人以上に持っていないと、この日本では生きていけないと思ったせいでしょう」とも述べている。
 私は長い間、つかの作品に「在日」という作者の背景を過剰に読み込むことを躇(ためら)ってきた。確かに彼は自分の特異な来し方を手がかりとして、すすんで自分の作品のモチーフにしてきたが、それはあくまで芝居の「手の内」として担保されてきた。
 それが『娘に語る祖国』の独白では、あの渋谷の喫茶店に現れた二十歳の詩人〈つか・こうへい〉の傍若無人な振る舞い、『熱海殺人事件』の容疑者、大山金太郎の寄る辺ない孤独、そして「役者たちを食えるようにする」という劇団主宰者としてのしたたかな侠気といった、つかのあらゆる活動の定点が、「在日」という来歴に同調して刻印されているように思えるのである。

〈みな子よ、きっと祖国とは、おまえの美しさのことです〉

 末尾を飾るこの台詞は、戦後の〈日本〉という大向こうに向けて劇作家つかこうへいが放った、会心の大見得だったのではなかろうか。


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