見出し画像

美の来歴㉕〈流謫の英雄〉という肖像   柴崎信三

 皇帝ナポレオンと〈転向画家〉ダヴィッドの紐帯


  アナトール・フランスの小説『神々は渇く』の主人公、エヴァリスト・ガムランは、その頃革命の記録画で知られたジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子にあたる若い画家で、王党派と戦うパリのポン・ヌフ地区の能動市民(シトワイヤン・アクティフ)である。
  アンリ4世時代の古いアパートに寡暮しの母と住み、アトリエで売れない絵を描いている。革命は絵画の市場も洗い流した。大口の蒐集家や領主や金持ちの一部は国外へ亡命し、あるいは地方へ逃れた。生活の糧にガムランがいま考えているのは、旧制度に代わる新時代の〈愛国的〉なトランプの制作である。キングやクイーン、ジャックといった王政時代の意匠に替えて、「天才」や「自由」や「平等」を図案化したトランプを作ってはどうか。版画商の一人娘の恋人、エロディは、そんな彼の計画になんというだろう。
 革命の熱狂は5年の歳月を経て、収まりつつある。パリの街角の食料品店の店先はパンもチーズも鶏肉も乏しくなり、人々は長い行列を作って手に入れようと競っている。それでもガムランは国民公会の指導者のロベスピエールやマラーに対する深い信頼を寄せて、〈革命〉への情熱をかきたててきたのである。そのマラーが或る日、王党派の女性テロリストの手で殺害された。

《マラは感じやすい、人間的な、恵み深い人だったのに、もはやいないとは!決してあやまりを犯したことがなく、すべてを見抜き、すべてをあばく勇気があったあの人がもはやいないとは!あの人はもはやわれわれを導いてはくれないのだ!》(『神々は渇く』大塚幸男訳)

 急進派のジャコバン派指導者、ジャン=ポール・マラーが殺されたのは1793年7月13日である。その年の初め、国王ルイ16世がギロチンで処刑された。王妃マリー・アントワネットも断頭台の露と消えた。
ダヴィッドは国民公会の議長を務めており、美術アカデミーを廃止するなど、密接に共和派の政治とかかわった。バスティーユ襲撃事件にも関与し、国民議会では国王ルイ16世の処刑に賛成の投票をしている。
 「革命の記録画家」として、社会の容認を得たダヴィッドは平民階級による憲法制定を決めた《ジュ・ド・ボーム(球戯場)の誓い》などを描いた。
入浴中のマラーが、ノルマンディー地方から訪ねてきたジロンド派の少女シャルロットに、隠し持った刃物で切り付けられて浴槽の中で死亡するという事件を知って、ダヴィッドはただちにその現場を画布に再現した。

画像1

 ◆ジャック=ルイ・ダヴィッド《マーラーの暗殺》(1793年、カンバス、油彩、ブリュッセル・王立美術館蔵)

 今日、フランス革命の激動の一断面を描いた名作といわれる《マラーの死》がそれである。画面のマラーは浴槽から裸体の上半身をせりだし、片手に暗殺者が持ってきたと思われる手紙を手にしている。胸元から滴る血と曲げられた右手が像主の死を表しているが、その表情は穏やかで苦痛や憤怒の影はない。
 ここには「英雄の死」という歴史のイディオム(語法)が、古典的な様式美のなかに図像化されている。 
 しかし、ジャコバン派の恐怖政治による独裁が「テルミドールの反動」を呼んで暗転し、ほどなく指導者のロベスピエールも失脚、処刑された。
 「ロベスピエールよ、あなたは眠っている!時は過ぎ行く、貴重な時は流れてゆく」。『神々は渇く』の主人公、エヴァリスト・ガムランは、ジャコバン独裁体制が崩壊する前夜の国民公会の空気をこう伝えている。

 彼らはみんなそこにいる―。味方はかまびすしい叫びをあげ、敵どもは黙々として。ロベスピエールがあの演説を読み上げると、国民公会の議員たちはぞっとするような沈黙を守っていた。そしてジャコバン派たちは感激の拍手を送る。(同)

 逮捕を前にしたロベスピエールは、同志たちに「これは私の死の遺言だ。諸君は私が毒人参を泰然として飲むのを見るだろう」と問いかけた。
かたわらのダヴィッドが応じた。
「私も君と一緒に飲むだろう」

 ロベスピエールは断頭台に送られ、国民公会議長のダヴィッドは逮捕されてリュクサンブール監獄に収監された。

画像4

   ◆ジャック=ルイ・ダヴィッド《自画像》(1794年、カンバス・油彩、パリ・ルーヴル美術館蔵)        


 ジャコバンの同志の非業の死と二度にわたる収監、そして恩赦による釈放という時間の経過は「革命の記録画家」の足場を大きく揺るがせた。そのころの画家の心の内なる葛藤は、《自画像》やローマとの戦いの和睦に立ち上がった女性たちを描いた《サビーニの女たち》に映し出されている。そして、フランスの皇帝となるナポレオン・ボナパルトとの出会いによって、彼の前には「皇帝の首席画家」へ転向してゆく道が開いてゆくのである。
 ダヴィッドがナポレオン・ボナパルトと出会ったのは、恩赦で収監を解かれた二年後の1797年だった。まだ28歳の青年将軍はイタリア遠征に従軍画家としてダヴィッドの弟子のジャン・アントワーヌ・グロを伴い、多くの戦争画を描かせた。帰国したボナパルトは王党派の攻撃にさらされていた師のダヴィッドを晩餐会に招き、その席で画家から肖像画制作の申し出を受けた。そして自らポーズをとるためにルーヴル宮のアトリエを訪れたのである。
 内弟子のエチェンスがその時の印象を伝える。
  
〈木造の小さな階段を、小走りにかけのぼったナポレオンは、帽子を手にしてアトリエに入ってきた。襟付きの青いマントを着ているだけで、なんの飾り立てもしてないが、マントの色が黒い襟飾りの色と入り交じって、ナポレオンの痩せた黄色い顔を浮かび上がらせた。光線の加減で、その時のナポレオンの顔は美しく見えた〉(大島清次『ダヴィッド』)

 ルーヴル美術館が所蔵する未完の《ボナパルト将軍》は、のちにナポレオンから「皇帝の首席画家」を任命されるダヴィッドがその時のポーズを下絵にして描いた、最初のナポレオンの肖像画である。
 執政ボナパルトは1800年、再びアルプスを越えてオーストリア軍を破り、イタリアをほぼ版図に組み入れた。求めに応えてそのアルプス越えの勇姿をダヴィッドは大胆な構図に再現した。いま〈ナポレオン〉の図像学的なシンボルとなっている《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》である。
 馬上のボナパルトは黄色のマントを翻して右手の人差し指を上げ、それははるかな峠を指している。後ろ足で立って咆哮する白馬にまたがったボナパルトの足元の岩にはハンニバル、シャルルマーニュとともにその名が刻まれ、彼が三人目の歴史の英雄であることを、そこに明示している。

画像2

◆ジャック=ルイ・ダヴィッド《サンーベルナール峠を越えるボナパルト》(1801年、マルメゾン城所蔵)


 それまでの肖像画の規範を超えて、像主のまなざしは観る者、すなわちフランスの国民に向けられているのであろう。新しい時代の英雄的指導者の肖像が、プロパガンダとしてここに生まれたのである。
   激しい人馬の躍動が伝わるこの作品は、どのように描かれたのか。
   伝えられる有名な挿話がある。
 ダヴィッドがこの場面のポーズをとるようを求めたところ、ボナパルトは「肖像が本人と似ているかどうかは重要ではない。アレクサンダー大王は宮廷画家のアペレスのためにポーズなどしなかった。その天才がそこに息づいていればいいのだ」といってそれを拒んだという。
 これにダヴィッドは答える。「あなたは私に絵画芸術を教えて下さいました。ごもっともです。シトワイヤン執政、ポーズなしで描きましょう」
   1804年、ナポレオン・ボナパルトが皇帝の座に就くと、ダヴィッドは皇帝の首席画家に指名され、12月1日にノートルダム大聖堂で行われた戴冠式に出席した。その記録画《皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式》は横が931㌢、縦が610㌢という大作で、式典の3年後に完成した。

画像3

◆ジャックールイ・ダヴィッド《皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式》(1804年、カンバス・油彩、パリ・ルーヴル美術館蔵))


 冠を受ける皇妃ジョセフィーヌを中心に皇太后や親族、緊張関係にあった教皇ピウス7世や皇族、重臣たちが、広い大聖堂の空間に当時のそれぞれの置かれた立場を映すような位置取りで描かれている。細心で細密なダヴィッドの筆触は、皇帝の誕生の瞬間を見事にとらえている。アトリエを訪れて完成した作品を見た皇帝ナポレオンは「何という素晴らしさだ!これは絵ではない」と叫んだという。
 「革命の記録画家」から転向した「皇帝の首席画家」は、この記念碑的大作を完成させてから10年余りのち、祖国を追われてブリュッセルへ亡命した。皇帝ナポレオンがモスクワ遠征に失敗、帝位に復したもののワーテルローの戦いに敗れた。ブルボン王朝が復活し、〈英雄〉は セントヘレナ島へ流されたのである。

   ところで、『神々は渇く』の主人公として冒頭に登場したダヴィッドの弟子の若い画家、エヴァリット・ガムランはそれからどんな道をたどったのだろうか。
   ロベスピエールとマラーに心酔して革命裁判所の陪審員となり、反革命の被告人を次々と処刑台に送ったガムランの運命は、テルミドールの反動で一転した。国民公会の委員から公権剥奪を言い渡されて死刑を宣告され、断頭台への馬車にのせられる。「吸血鬼!」という民衆の悪罵を浴びながら、公開処刑へ向かう道すがら、見覚えのある中二階の窓辺から一輪の深紅のカーネーションが投げ込まれた。花を投じた恋人のエロディは窓の下の馬車を見送ると、傍らの新しい男の胸に身を任せるのである。
                                                                

標題図版◆ジャック=ルイ・ダヴィッド《ボナパルト将軍》(1797-98年頃、カンバス、油彩 81×65㌢、パリ・ルーブル美術館蔵)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?