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妄想感想文 「『幼児期の終わりまでに育って欲しい姿』は保幼小連携・接続の鍵となり得るのか!?」

季刊保育問題研究は、知る人ぞ知る(つまり多くの人は知らない)1962年創刊の雑誌です。保育について、研究者と現場保育者、時には保護者や小学校教員も交えて、ともに学び合います。

2021年2月発行の307号をパラパラとめくる手が思わず止まったのが、こちら。

「『幼児期の終わりまでに育って欲しい姿』は保幼小連携・接続の鍵となり得るのか!?」

佐藤哲也(さとうてつや)さんによる特集記事です。もし、お手持ちの方がいらしたら、p24を開いてください。

タイトルを見て気づいたことは、そもそも保育問題に疎い私。「幼児期の終わりまでに育って欲しい姿」とカギカッコ付きで言われても、いったい何のことやら見当もつきません。

ま、知らないものなら妄想してみよう。

仮に私が小学校の教員だったとする。幼児期の終わり、つまり小学校入学までに育ってほしい姿ってなんだろう?

本人のフルネームに反応して、返事くらいはしてほしい。必要に応じて「先生、トイレ!」と言ってほしい。そして個室内では自分で自分の世話をしてほしい。給食はできればこぼさずに自分で最後まで食べて、食器の片付けも自分でしてほしい。隣の席の子にケンカを売らないでほしい・・・。

思いつくまま言葉にしてみて、驚いた。なんてご都合主義なんだ!自分がラクできるように、私の都合で子どもに対する門戸を狭めている。

では反対に、もし私が保育・幼児教育関係者で、上のような注文をつけられたらどうだろう?

「卒園」というタイムリミットを定め、それまでに「あれも、これも、できるようになっていないと!」と、目を三角にして子どもたちを急きたてる。「できるのは良いこと」「できないのはダメなこと」と、短絡的な価値観を子どもたちに押し付ける。そこには、「とりあえず、あなたの気持ちは後回し」「ありのままのあなたは要らない」という隠れたメッセージが含まれる。

小学校関係者や保護者、園長先生、同僚といった大人たちの前では、「自分の関わり行動によって、いかに子どもたちを『できる』状態へと誘導したか」を因果律で説明しようとする。なぜなら他ならぬ保身のために。

なんて汚いんだ!
そんな奴に、大切な我が子の幼児期という貴重な時間を1秒たりとも預けてなるものか!

・・・あ、妄想か。助かった。

さて、悪夢のような妄想を振り返ってみよう。

保育園や幼稚園と小学校との接続点で、ある一定の発達状態を規定したとき、程度の差こそあれ、上記のようなことが危惧されないだろうか。後から引き受ける側は、自分の都合で「ここまでは頼んだよ!」と注文を出す。注文を受けた側は、帳尻を合わせることが目的化する。

ここで、根本的な問題は何か?

子どもが、人間が、どこにもいないことだ。全てが組織のために動いていることだ。人間のための組織ではなく、組織のための人間になっていることだ。

私たちは、大人も子どもも、みんな生きた人間だ。生きた人間は一人ずつが違う存在だ。気持ちを持った存在だ。そして気持ちは、一人ずつの違いの最たるものだ。その大切な「気持ち」を組織の円滑な運営のために、「とりあえず後回しにしておけ!」という隠れたメッセージを、容易に発信させてしまいかねない。それは取りも直さず、ありのままの人間存在を否定することとも言い替えられる。こうした危うさにこそ問題の根があるのではないか。

しからば、そんな危うさを踏まえたうえで、目的を見失わないために大切なことは何だろう?

きっと、簡単な答えもHow toもないのだろう。それでも、自分も目の前の子どもも生きた人間であり、気持ちを持った、一人ずつ違う、ありのままの存在だということを徹底的に認めることから始めるしかないのではないか。

違うことは、時に魅力でもあり、面白くもある。しかし大抵の場合、違いは違和感や摩擦を生む。時にはそれが不安や不満、場合によっては拒絶にまで膨れ上がる。そんな違いを大切に扱うことは、面倒であり、時間も手間もかかる。経済至上主義の観点から見るならば、極めて非効率なことに多くのエネルギーを注ぐことになる。

それでもなお、その手間をいとわない勇気と根気を持ち続けることができるだろうか。折に触れてセルフチェックしてみよう。もちろんこれは、保育・教育には直接携わっていない私から始めてみよう。

***

以上は、タイトルだけから私が勝手に妄想した感想文です。
本物の佐藤哲也先生(宮城教育大学)の論考は、これから読みます。

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