夜の帳(乙女はダイヤモンドなヴァージン編)

 今が戻れない過去になる。

 車内のシーズヒーターが僕を現実と空想の境目へと誘う途中、ふとそんなことを考える。発車待ちで開きっぱなしの扉から吹き込んでくる寒風が、何とか僕を現実へと引き止める。耳元から郷愁を誘うあの頃の曲がランダムで流れ込んでくる。

 「ドアが閉まります。ドア付近のお客様はご注意ください」

 デジタルなベルの音が車内に響き渡る。どうやら今日という一日が始まってしまったようだ。

 朝の通勤時は音楽を聴かない。そもそも芸術に触れない。それがモットーのはずの僕が、何故か今日は音楽を聴いている。

 物語はいつもふとした非日常がもたらす。そう、例えば今みたいに、いつもは聴かない音楽を聴いている時だったり。

 視界の隅に透明な赤いシートが本の上に乗っているのが見える。テストが近いのだろうか。昔の自分と見比べて、ふと感心してしまう。僕も少し歳をとってしまったみたいだ。心の中で呟きながら目をゆっくりと閉じる。空想への招待状が脳内に届いた。車内の温度と程よく揺れる車体が持ってきたのだろう。そろそろそっちへ行く時間だ。

 夢へ堕ちる最中、脳内をノスタルジーが一気に埋め尽くす感覚に襲われた。幼い頃、どこからか聞こえてくる子守唄のようなそんな心地よさが体中を包み込んだ。目の前で天井から吊るされたダイヤモンドが輝きを放っている。その奥の薄いカーテンの向こうで人の陰影が踊り狂っている。シンセサイザの音色が堕とす速度を強制的に上げていく。気がつけば、僕はあの頃へとタイムスリップしていた。
 



 「柊人にします」

 「よし、じゃあ、これからここにいる時のお前の名は柊人だ。これからよろしくな柊人」

 もう一人の自分が生まれた瞬間だった。

 窓の外からネオンの光が差し込む。まるでもう一人の僕の誕生を細やかながらに祝福しているかのようだった。
 ここは雑居ビルの七階の中の一室。この界隈では名の知れたホストグループの内の一店舗がここに入っていた。

 昔から夜に興味を持っていた僕がこの世界に片足を突っ込んだことは、至極当然ことだった。
 店内は、店の扉を開けるとすぐにカウンターが顔を見せる。カウンターは部屋の奥へと伸びており終端でL字型になっていた。一番奥にボックス席が二つと、カウンターに置いてある椅子後ろの通路壁際にダーツ台が一台あるだけの、こじんまりとしたレイアウトだった。
 部屋の一番奥には大きなモニターが取り付けられていた。

 「私、新人には厳しいよ」

 そんな女性が最初に付いたお客様だった。この世界ではどんな女性もお姫様である。僕は満面の笑みで答えた。

 「はい。この世界のこと色々と教えてください」

 お世辞にも可愛いとは言えないお姫様が茶色く燻んだ顔を真ん中に寄せて微笑んだ。
 



 幼い頃から家には沢山の人が出入りしていた。そんな環境のせいか、僕は自分でも知らない間に、人に好かれる方法を会得していた。その能力はこの世界でも存分に発揮された。

 「初仕事、お疲れさん。初めてとは思えへんくらい接客上手かったやんか」

 夜通し働いたことのなかった僕は自分でも気付かないくらいに疲れていたのだろう。そんな僕の肩を優しくポンと叩く掌があった。これだけで、今日一日が報われた気がした。

 「片付け終わったな。柊人、こっからが俺達の時間やで」

 鴉が羽を広げるように、代表が黒いコートを羽織る。窓からは生まれたての太陽の光が差し込んできている。時計の針は午前九時を差していた。夜の帳はもうとっくに幕を上げていた。

 「ここからですか?もう、お客様は来ないような気がするんですけど」

 「分かってへんなぁ、行くで」

 眠気の限界に来ていた僕はとにかく今日という一日を終えた自分に睡眠という褒美を与えたかった。だが、そんな考えも二時間後にはとっくに消えていた。

 「朝からキャバクラやってるんですね」

 「なんや、なんも知らんなほんま。そーやで、これがこの世界のルールみたいなもんや。こーやって同じ業界同士、交流を深めるんや」

 その日の朝は、今まで生きてきた人生の中で一番楽しい朝だった。僕は薄れていく自意識の中で確かにそう感じていた。

 意識を取り戻すと、目の前には海原が広がっていた。電車は僕を大自然の目の前へと運んでいた。脳内が洗濯機のようにぐわんぐわんと回っている。潮風が顔をベタつかせる。

 「早く家で寝たい…」

 後もう少しで夜の帳が下りる。また、僕達の時間が訪れる。



 ある日Twitterを見ると、一つのフォロー申請が来ていた。
 イベント発生のアラートが僕の頭の中で鳴り響く。彼女は僕の人生というゲームの中で突然発生する幻のダンジョンのような女性で、未だに攻略できていない。
 フォロー許可する。と、同時にDMが届く。
 「久しぶりだね。今日ご飯行こうよ」
 
  …。


 「すごい店だね」

 「うん、この前パパに連れてきてもらったの。そんなことより、元気にしてた?」

 高級と言う二文字しか思い浮かばない門構えだった。一枚板のカウンターのみの天ぷら屋の空気に、僕は少し怯えていた。

 「うん…。マナは?」

 「まぁまぁかな…。ねぇ、私どこか変わったと思わない?」

 「え、どこかな…」

 何事も本気で考え込んでしまう僕はこの質問が苦手だった。

 「顔。エラ削ったの。あと、頭の形も変えた。だからあんまりご飯食べれないの。顔が上手く動かなくて。今も頭に何か入ってるし」

 彼女が微笑みながら言う。前の顔をよく覚えていない僕は、笑うしかなかった。

 「一年前くらいに会った時も、整形してなかったっけ」

 「目と鼻ね」



 僕に夜への憧れを抱かせたのは、きっと彼女だ。

 高校生の頃、あるSNSで僕達は繋がった。相手の顔すら分からないアバタのみのSNSは、妄想癖のある僕には少し不向きだった。どうしても、見ず知らずの相手の顔を脳内に美しく映し出してしまう。妄想で止まるなら良かったが、僕達は実際に会うことになった。

 実際に会った時、彼女は期待の範疇で可愛かった。幼さの残る顔立ちにパッチリとした二重の目。ほっぺたが少し膨らんでいるのが、余計に幼い印象を僕に与えた。笑った時に口元に手を当てながら下を向く動作に、心が何度も動いた。

 彼女は親の顔を知らない。今は叔父と暮らしていると言うが、本当かどうかは分からない。職業は夜職と言っていたが、後から風俗嬢だと分かる。その頃には既に所属している店のランキング一位を独占していた。

 初めて会ったあの日、僕達は一夜を共にした。しかし、僕は彼女を攻略することはできなかった。

 それから、僕たちは何度も夜を共にした。出しゃばりな太陽を何度恨んだだろうか。結局彼女が僕に全てを捧げることはなかった。そうして、彼女は忽然と僕の前からいなくなった。


 「私の家で飲み直そ」

 その一言に、また淡い期待を抱いた僕は本当に大馬鹿者だろう。僕を怯えさせた門構えを後に僕たちは超高層マンションへと向かった。

 「すごい所に住んでるね」

 「三人目のパパに買ってもらったの。もう出ていくけど…」

 シングルベットはその小さな体で若い二人を何とか支えていた。僕は無言で天井を見上げていた。

 「私、東京行くの」

 ふと彼女が言った。

 「そう…」

 僕はそれ以上何も言わなかった。彼女が僕の前から消えることは珍しいことではなかったから。

 「いつかまた会えるといいね」

 「マナがその気ならいつでも会えるよ」

 僕はそう言いながら、寂しげに微笑んだ。



 「私、この子を育てるわ」

 この世界には色々な人がいるみたいだと知った。男、女、そしてLGBTQ。
 この界隈では帝王と呼ばれていたおかまが、ひょんなことから僕のお姫様になってしまった。僕は、下っ端ながらにして、帝王を客にもつ新人ホストと言う、よく分からない称号を手にしてしまった。

 さゆりと言った年齢不詳のお姫様は僕に色々な夜のルールや、この界隈の勢力を教えてくれた。そして、本当に高級なお酒の味も。

 「柊人、あなたはきっといいホストになるわ。いい?ホストっていう職業は時に人の命を救うのよ。それをいつも肝に銘じてあなたはこの世界で生きていくの。分かったわね。よし、じゃあピンドンおろすわよ!」

 さゆりとの出会いは少なからず僕の人生観を変えた。そして、本当の意味でいろんな世界がこの世にはあるのだということも知った。

 「昔は今ほどおかまに優しくなかったからね、ふふ。いい時代になったわ。女にとっても、おかまにとってもね」

 時に寂しそうに微笑む帝王は、その背中に目に見えない多くの何かを抱えているように見えた。



 
 ある日、僕はグループのオーナーに呼ばれた。

 「ええか、柊人。普通はこんなことないからな。これは名誉なことやねんで。絶対粗相のないようにな…」

 いつも優しそうな主任が、少し顔を硬らせながら僕に言った。そのおかげで、僕の体中を一気に緊張が包み込んだ。

 「君が柊人か。初めまして。こっちは…まぁ俺の女やな、はは。ほな早速飲みに行こか…」

 オーナーは想像していた百倍は熊に似ていた。動かざること山の如しを体現したような体つきだった。

 「柊人君。いい名前ね。私ありさ、よろしくね」

 「あ…、よろしくお願いします」

 僕はこの美人すぎる女性を前にして、動かざるごと山の如しとなってしまった。オーナーに対する緊張は既にどこか遠くに飛んでいっていた。

 「あ、あのお二人はどういった…」

 「ビジネスライクな関係や。柊人、この世界のことはこれからゆっくりと学んでいったらええ。こう言った関係がこの世界ではなんぼでも必要になってくんねん。ありさはこの界隈の女の世界でトップの存在なんや。俺とありさが並んで歩くだけで、格好つくやろ」

 「柊人君は、この世界で働き始めてどれくらい経つの?」

 「まだ一ヶ月くらいです」

 「へぇ、それであの人がお客についてくれたんだ。ついてるね」

 「ほんま、めちゃくちゃ運がええわ。さゆりな、俺の大事な友達やねん。大切にしたってや」

 見ただけで分かる、とても高級なバーに入る。店内は程よい暗さと、気持ちを落ち着かせてくれるような良い香りが漂っていた。
 オーナー、ありささん、僕という席順でカウンターに座る。まだお酒の知識のない僕は、二人の頼むものをじっと待っていた。

 「オーナー、もうすでにだいぶ飲んできてるからね、そんな緊張しなくてもいいよ。ジンフィズ一つください」

 ありささんは僕にそっと耳打ちする。緊張の原因はオーナーじゃないんです、そんな言葉を胸にしまい込み、僕もジンフィズを頼む。
 二人に出会う前の不安をよそに、とても良い具合に会話は進んだ。お酒の力も味方して、僕も饒舌になってきた。

 「ねぇ、柊人君って風俗とか行ったことあるの?」

 「あ、いや、あの」

 「ははは、行ったことあるに決まっとるやろ。みんなこの年齢になったら行くわ。な、柊人」

 「あー、はい…。一回だけ…」

 「え、なんかショック」

 「おいおい、ありさ。男なんかそんなもんやぞ。どや柊人、気持ちよかったんか?」

 言わなければよかった。
 僕はありささんの言葉に少し、いや、心底傷つき、オーナーの声なんて全く聞こえなくなっていた。
 その時、ふとありささんの左手が僕の手を掴む。瀕死状態だったはずの僕は突如訪れた緊急事態に対応しきれず、体が硬直してしまった。
 訳の分からないまま、何とかオーナーにバレないように会話を続ける。さっきまでの饒舌は何処へやら、しどろもどろになってしまい何を話しているのか自分でも分からなくなっていた。
 すると、ありささんは僕をじっと見つめて、ふふっと微笑み、顔を近づけてきた。

 「ねぇ、この後時間ある?二人でどっか行こっか…」

 僕は返事ができず、手のひらを強く握り返すので精一杯だった。
 店に響き渡る軽快なピアノジャズの音色だけが、僕の鼓膜を揺さぶっていた。



 一片の花弁が散った。繊細と崩壊と美は常に隣同士にあるんだと初めて知った。

 「ねぇ、まだ緊張してる?」

 「いや、もう大丈夫です」

 「なーんだ、つまんない」

 部屋は深い桃色で彩られている。さっきまでの二人の荒い息遣いはいつの間にか息を顰めた。

 「て言うか、大丈夫なんですかね…。その、オーナーとかに怒られないですか」

 落ち着きを取り戻した途端とてつもない後悔と恐怖が、この重たい掛け布団のように覆いかぶさってきた。

 「大丈夫だって、彼さっきも言ってたでしょ。ビジネスライクだって。好きなんて感情もない、ただお互いを利用しあってるだけよ。ねぇ、そんなことより…」

 彼女の白く細いプラチナのように輝く指が僕を撫でる。

 「私も、もう長くないから…。まだいいよね…?」

 夜の闇は人を獣に変える。体も心も。夜はまだ、終わらない。



 「次はー明大前ー、明大前ー…」

 ふと、目を開ける。タイムトラベルはどうやらここまでのようだ。僕を過去へ誘った曲はとっくに演奏を終えていた。

 隣に座るセミロングの髪の女性が、僕の膝に頭を乗せるんじゃないかと思うほど体を傾けている。

 狂おしい程愛した夜。来るもの拒まず、去る者追わずの夜。そんな夜と、いつからか僕は決別していた。

 あの日以来、ありささんの姿を見ることはなかった。どこからも、誰の前からも姿を消してしまったのだ。夜を極めた蝶は、美しいままの姿で僕達の前から消えた。僕は、彼女から真の美しさを教えられた気がした。あの日、最後に彼女が寂しそうな顔で言ったセリフの意味が、今ならほんの少しだけわかる気がする。

 さゆりは、僕が夜の世界から去るまでずっと支えてくれた。今はどうしているか分からない。いつの日か、ふと道ですれ違ったとしても、お互い気付く事はないのだろう。それでいい。夜の闇の厚化粧を取ったら、皆が皆、別々の道を歩いていく。そしてまた夜が愛おしくなるのだろう。
 「私、この曲好きなの…」
 自分のことを話さない彼女が、唯一自分のことを語った瞬間だった。
 気がつけば、僕はその音楽を検索していた。
 
 夜は更なる出会いを僕に与えていた。有名なダーツ選手だった風俗嬢、タトゥー塗れの幼い女子、有名ロックバンドのボーカル、エトセトラ…。これらは次のタイムトラベルの機会へと取っておこう。井の頭線という短い区間は、この物語の上映時間には少し短すぎる。
 


 マナ。
 僕達は、この短い人生の中で刹那的に現れたお互いの何かに惹かれた。
 最後に彼女との別れをもたらしたのは僕の方だった。
 あれから何年も経ったある日、SNSを整理しようとFacebookを開いた時、友達申請欄に彼女がいた。僕は、昔を懐かしむように少し微笑み、そのままアプリをアンインストールした。
 あの頃は僕も寂しかったのだろう。彼女との時間でその寂しさを埋めていた。そしてそれは、きっと彼女も同じだった。
 夜がもたらす出会いは、幻のように消えゆく運命なのかもしれない。

 彼女が向かった先に、今僕もいる。
 最後に彼女を見たのは、大都会の大きな看板の中だ。もう遠い世界の人のはずなのに、何故かまた何処かで出会えるような気がしていた。
 「君は本当に面白いね、ふふ」
 あの時の言葉が鮮明に蘇る。彼女の放つ一言一言が、僕に呪いをかけた。
 神様は人間を嫌いなのだろう。でないと、決して戻れない過去を美化するという恐ろしい能力を人類に備え付けないと思う。

 「次はー、終点ー、渋谷ー、渋谷でございます…」

 隣の人はまだ起きない。すぐ立ち上がって起こすのも悪いかな…、そう考えて、車内の人がまばらになるまでシートに座っていた。他人が忙しく目の前を過ぎてゆく。
 あの時、もし僕が君を止めても、君は僕の目の前から居なくなっていただろう。それでも…。


 気がつけば車内にいる人間は僕達二人だけになっていた。
 刹那、この世界に僕たちは二人きりになったような気がした。

 「あ、あの、着きましたよ」

 ふと我に返ったように、寝ている隣人に声をかける。隣の人はゆっくりと頭を上げて、セミロングの髪を暖簾を捲るように上げた。

 「え」

 パッチリとした二重に少し膨らんだ頬。どこか幼さの残る面立ち。

 「久しぶり、ふふ、ビックリした?」

 彼女は口元を手で覆いながら下を向いた。
 
 
 
 
 
  
 
 
 

 
 

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