エレベータ

 「おいおい、大遅刻だよ。昨日暴飲暴食しすぎたか」

 一人の男が額に大量の汗を迸らせながら走っていた。時計の針は無常にも始業時間を通り過ぎていた。

 「はぁ、やっとついた」

 息を大きく切らせながらエントランスへと駆け込んだ。あとは、エレベータを呼んで、目的の階まで運んでもらうだけだ。言い訳はそこで考えよう。男はそう考えながらエレベータの前で立ち止まった。エレベータは既にエントランスにあり、扉を開いていた。だが、その前でエレベータは男に向かってこう言った。

 「ただいま点検中でございます。申し訳ございませんが、階段をご利用ください」

 男は絶望した。これが昔のビルならばそこまで絶望することはなかったかもしれない。だが、今は時代が違っていた。
 彼のオフィスは三百階建てビルの、二百二十階にあった。今から階段で登ったとしたら、余計に時間は過ぎるし、何より、二百二十階までの階段を登る余力は彼に残っていなかった。

 「くそ、点検中でも動くだろう」

 男は、点検中のエレベータへと乗り込んだ。エレベータからビービーとサイレンが鳴り響いていたが、男はお構いなしに言った。

 「おい、発射しろ」

 「降りてください。危険です。降りてください」

 「さっさと行くんだ!行き先は二百二十階だ!」

 「かしこまりました」

 「ふぅ、早く言う事を聞いておけばいいんだ…」

 エレベータは扉をプシューと音を立てて閉めた。いつもよりも厳かな音を立てて閉まる扉に違和感を感じた。

 「ん?なんだ…?」

 少し経ってから、怪獣のいびきのようなゴゴゴと低く唸る音がエレベータ内に響き渡った。

 「おいおい、なんだ。おい、どうなっている」

 「発射します」

 「え?」

 その瞬間、エレベータはものすごい勢いで上昇し男の行き先をあっという間に通り過ぎた。

 「ふんぐ…!」

 エレベータ内の圧は調整されているものの、男にいくらかの重圧をかけながら上昇した。ゴゴゴとなっていた音の中に時たま爆発音が聞こえた。エレベータはさらに上へ上へと上昇しているのを体で感じた。その間、男はただ重圧に耐えるだけで精一杯になっていた。

 永遠のような時を感じた。人は恐怖を感じた時に時間の知覚がスローダウンする。男はどこかで見た言葉を思い出していた。いつまでも続く重圧と底知れぬ不安は、まさに男の時間感覚に歪みを発生させていた。

 いくらか経ったあと、唸りをあげた音は収束していき、音の収束と共にスピードも段々と落ちていった。同時に男の体もそれに比例して軽くなっていった。そして音は完全に鳴り止んだ。

 静寂が耳をつん裂くようにうるさく鳴り響いた。

 「はぁ、はぁ、あぁ…。ここはどこだ。外はどうなっているんだ」

 男がそう呟くと同時に、エレベータはスケルトン化して、周りの景色を透過させた。そこには、生物であれば誰もが息を呑むほどの絶景が広がっていた。

 「あ」

 男はその景色に目を奪われた。絶景とはこういう事を言うのだろう。
 そこには、青、赤、緑、紫、黄と様々な顔色をした星々がふわふわと気持ちよさそうに浮かび、宇宙が男を歓迎しているように見えた。

 男は先ほどとは打って変わって時間を忘れて、周りの景色を見ていた。

 いくらか周りの景色に見惚れていた男だが、ふと何かがおかしいことに気がついた。星々がとても遠くにあったせいで気が付かなかったのだが、エレベータは今も前に前にと生き急ぐように進んでいたのだった。だが、気がついた時にはもう遅かった。言葉を失いながら後方を見た時には青く美しい星は、遥か後方にふわふわと浮かんでいたのだった。

 「嘘だろう…」

 男は唖然とした。もう自分の力ではどうしようもできない。寝坊したことや、遅刻したこと、点検中のエレベータに乗ってしまったこと、昨日暴飲暴食してしまったこと全てに後悔しても、もう遅かった。

 「おい、クソAI。聞こえているんだろう。早く地球に戻りやがれ」

 だが、エレベータはうんともすんとも言わなかった。

 「クソ、クソ」

 男はエレベータの壁を叩こうとして、やめた。
 もしこの壁がなくなったら自分は生きていくことができない。少しだけ残っていた理性が男のその行動を止めた。
 





 宇宙を彷徨い始めて幾らかの時が過ぎていた。エレベータは前進しか知らない猪のように進み続けていた。

 「腹が減ったなぁ…」

 男の嘆きは、宇宙空間に無慈悲に溶け込んでいったように感じた。だがそれはただの錯覚で、その声は透過したエレベータ内に響き渡っているだけだった。

 男はできるだけ体を動かさずに、座り込んだままじっとしていた。もたれる壁があることに安心した。エレベータがいることがわかっただけで、男は孤独ではないと思うことができた。

 その時、宇宙空間に響き渡るように、AIが発声した。

 「次の目的地はどこでしょうか。」

 男は、びっくりした。もう既にAIの存在を忘れていたのだった。

 「あ、あぁ。今まで何していたんだ。地球に戻ってくれ、地球に」

 「地球に戻るエネルギーはありません」

 「そうか」

 男は怒るためのエネルギーさえ失っていた。

 「じゃあ、とにかく腹が減った。どこか食料のあるところに連れていってくれ」

 「かしこまりました」

 エレベータは進路を変えて、近くにあった茶色く月の十分の一程度の大きさの星へと着陸した。

 着陸して少し経ち、プシューという音がした。おそらくエレベータの扉が開いたのだろう。男はそう確信して、恐れることなく前へと進んだ。その星は地球ほどの重力はなく、体がふわふわとしてとても歩きづらかった。きっと、いつも通りの俺ならとてもテンションが上がって子供のようにはしゃいでいるんだろうな。そう考えながら、とにかく食糧を求めに、ふわふわ浮く体をこけないように制御しながら前へと進んだ。

 着陸して、すぐのところに小高い丘があった。あそこから見渡せば何かわかるうじゃないだろうか。そう考えた男は丘へと急いだ。とにかく宇宙に出てから単調なことばかりだったから、心は何かの変化を求めていたのだろう。男はそんな自分の欲求に気づかずに無我夢中で丘を駆け登った。

 丘のてっぺんに到着し周りを見渡すと、すぐに変化を見つけた。それは何か小さな工場のような建物だった。

 男は一言も発さず丘のてっぺんからジャンプして、一気に丘を飛び降りた。すると、思いのほか上へと高く舞い上がり、着陸時に少しよろけた。だが、それも意に介さずとにかく工場のような建物へと急いだ。その工場に少し違和感を感じながらもとにかく一目散に走った。

 そして、工場の前に着いた時に違和感の正体に気づいた。

 「思ったよりも小さいな。扉が俺の背丈よりも少し低いくらいか」

 男は扉に手をかけた。扉は少し硬かったが、思い切り力を入れるとバキッという音を鳴らしながら、ギーと少しずつ低くなる音を響かせながら開いた。

 「おお…」

 建物内は嗅いだことのない匂いで充満していた。それは決して不快な匂いではなく、直接胃を刺激するような、とても食欲のそそる匂いだった。

 男は小さな建物の中に入り、少し小さめの寸銅のような容器が綺麗に一列にいくつも並んでいるのを見つけた。その蓋を開けてみると、中はスープの様な液体に満ちていた。見た目にはとても食欲の湧かないような代物だったが、男は構わず口の中へと放り込んだ。その味は今まで経験したことのない味だったが、とても美味で、たちまちほとんどのスープを飲み尽くした。

 「あぁ、助かった…」

 男は満足そうにして、ふと気がついた。もしかしてこれは誰かの食糧だったんじゃないか。そう考えると、ここに長居するのは得策ではないと考えて、罰の悪そうに工場を後にした。

 「少しスープを飲みすぎたな」

 エレベータの元へ帰る途中、男は道の途中で排尿をした。
 
 「ふぅ、スッキリするな。それにしてもあのスープのおかげでかなり元気はでたぞ」

 尿は地面へと染み込んでいき、乾いた星の地面を少し潤した。

 男はエレベータの着陸した場所へと戻ろうとした。しかし、周りは似た様な景色ばかりでエレベータも透過して所在がわからず、不安が一気に男を襲った。しかし、エレベータの聴き慣れたピンポンという音が近くで鳴り響き、一気に安堵の波が押し寄せた。

 「あぁ、お腹いっぱいになったよ。美味いスープを見つけてね。さぁこれからどうしようか…」

 「この星に多くはないですが、地球に帰れる程度のエネルギーが存在することを確認しました」

 「なに。それを先に言えよ。そこに急ごう。さぁ早く」

 男は歓喜した。地球に帰れるかも知れない。そう考えただけで、興奮を抑えることができなかった。男はエレベータに乗り込み出発するのを待った。

 だが、エレベータは微動だにしなかった。

 「おいおい、焦らすなよ。早く出発してくれ。地球に帰りたいんだ」


 するとエレベータはこう呟いた。





 「エネルギーはこの星の地中深くに染み込んでおり、入手不可能です」

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