第18回 仕事から消えていく自己実現 -人を育てられない会社への危惧-
1.予想される新卒者の多難
コロナ禍による社会の閉塞状況は、様々な分野に影響を残すと考えられるが、その一つに若年者の雇用に対する意識に変化をもたらす可能性が挙げられる。憧れの大企業が、リストラもしくはこれまで聞いたことのない社外出向などという事態に陥っていることは、就職への夢を打ち壊すに十分な情報であるといえる。来年の大卒者は平成10年頃の生まれとなるが、この20年間は生活保護世帯が右肩上がりで増加した(平成30年は平成6年比で2.3倍)ことに象徴されるように、賃金は上昇しておらず、多くの勤労世帯は生活を向上させることができなかった。生まれて以来、ほぼ上向くことのなかった経済状況のもとに育ち、令和になってやっと回復の兆しが見えたところでのこの度の惨禍である。
来年4月入社組の多くは、コロナ禍以前に内定を決めているようであり、一部取り消しの報道もあるが、現状においては悲惨な状況にあるとまでは言えないのかもしれない。しかし、来年度以降については、おそらく多くの企業は採用に慎重な姿勢を示すであろうから、就職戦線が厳しいものとなることは間違いない。もっとも、新卒者への向かい風は、コロナ禍ばかりではない。同一労働同一賃金への意識の広がりは、能力主義を徹底させる方向に導くであろうし、今後進むであろうジョブ型雇用は、即戦力の採用を優先させるものと予測され、新卒者にはいずれも障壁となる可能性が高い。時代の趨勢を考えればやむを得ないことであるが、企業が人を育てる力をなくしていくのではないかとの心配はある。
2.研修名目での人員不足の補填
近年の労災事案を見ていくと、企業が人を育てる力を失いつつあると痛感することが少なくなかった。会社の研修期間中に、新入社員が退職する、病気になる、精神的に挫折するといったトラブルが発生することは珍しいことではない。もちろん、研修期間中に人間関係を悪化させる、仕事が自分に不向きであることを悟る、そもそも本心で希望して入社したものでなかったなど、労働者自身の気質や忍耐力に起因する場合もあるように見受けられるが、一方において、研修の内容や期間に問題があると感じられる例も少なくなかった。
外食産業や商品販売の会社では、会社の業務全体像を知るため、もしくは本人の適性を見極めるためなどという理由により、社内の各部門を一定期間経験させるという研修を組み込むことが多い。確かに、文科系か理科系か、製造部門か販売部門か管理部門かなど、入社時から輪切りにされることが多い新卒社員などの場合には、こうした研修は有効である場合もあろう。しかし、研修の名のもとに、幹部候補もしくは事務職として雇用された者が、工場や販売部門の人員不足を補うために、長期にわたって労働力として利用されていると感じられるケースもある。現場を知らなければ幹部職員にはなれないとの説明は一応説得的であり、反論はしにくい。周りにはパート労働者しかいない環境において、正社員であるとのプレッシャーのもとに過重な労働をしてしまい、心身ともにつぶれていくというケースもあった。
3.定着すると理不尽さは認識し得なくなる
労働関係とは、労働の結果ではなく労働そのものが目的であり、使用者には労働力の処分権として指揮命令権が生じると説明されることが一般的であり、労働力を購入した使用者がいかなる研修を行おうとも、人権を侵害するなど他の法規に違反しない以上、自由であると考えられる。そうした感覚もあってか、未だ体力や根性を鍛えるとの目的で団体行動を強制することや、社会性を鍛えるとの名目において、街頭でいきなり名刺交換をお願いさせるなど、強権的な研修を実施している会社は存在している。
傍から見ると無意味ないしは不当にさえ思える研修等も、当該組織に組み込まれている者にはおかしなものと感じないことが多いようである。研修期間中に精神障害を患った例において、当該研修の内容や期間に係る会社関係者の印象は、「例年どおりであり、特に過重であるとは思われない」といった回答であることがほとんどである。さらに、度々、自らの経験に基づき「あの研修が今の自分を作り上げている」などといった声も聞かれる。周辺の事情を調べていくと、製造ないしは販売の現場から人員を回せとの要請が来ていたなど、怪しい動機も見え隠れするのであるが、それも本人の成長のためであると開き直られると、もはや如何ともし難い。
組織においては、一つの流れができてしまうと、その水流を変えるエネルギーを見出すことは度々難しくなる。組織の誰かがその流れの問題点を発見することがあっても、多くの者がその流れに乗ってしまっているか、もしくはそもそも組織の将来像などに関心を持たない者が多くなっている場合などにおいては、発見者の方が挫折することになりやすい。
4.新たな発想ができなくなる組織のパターン
一般的に、仕事は慣れによって全体像が理解され、次第に自分なりのやり方が形成されるものであると考えられる。ところが、人員に余裕が無いか、もしくは結果を性急に求める会社においては、型にはまったやり方を押し付けて、これを習得する事を持って能力であるとの評価をしやすい。この点、そうした定型的なやり方は、先人の経験の中で培われてきた方法であることが多く、関係者の感覚において合理的であるとの考えに至ることは理解できる。しかしながら、当該方法が合理的であるか否かは、あくまで過去の経験を基礎としたものに過ぎず、その時代において最も効率的であるかの検証はなされていないことが多い。
例えば、野球の打撃において上から叩けといった理論やゴルフにおいてダウンブローに打てといった理論は、それぞれのスポーツの鉄則のように語られてきたが、科学や道具の進歩は、必ずしもそれが絶対的な正解であるとは言えないとの理論を定着させつつある。ある方法が、合理的であるとの認識は、あくまでその経験者の時代に制約されているものであるが、経験が豊かであるか、もしくは苦労して習得されたものである場合には、その制約条件に気付かないか、もしくは気付かないふりをする事になりやすい。そして、組織全体がそれを信じているか、または信じ込まされている場合には、その他の方法は受け入れ難く、結果、異端者を排斥しようとの心理状態に陥りやすい。
5.仕事は「あそび」でもある
もちろん、例えば、新入社員が新たな発想や提案をしても、具体的に有用であるとして利用可能となる確率は極めて低いであろう。余計な事を考える前に、まずは定型的なやり方を覚えなさいという「大人の発想」について、これを全面否定するつもりはない。しかし、こうした「大人の発想」が、多くの才能を押しつぶしてしまっている可能性があることにも気付くべきであろう。仕事とは幾ばくかでも創造性に結び付くから楽しいものであるにもかかわらず、旧態然とした会社においては、その芽を潰してしまっているかもしれないのである。
労働法の大家で私の恩師でもある下井隆史神戸大学名誉教授は、1975年の著書において、当時議論のあった就労請求権について、これを認めるべきであるとの立場から、その理由として、「仕事とは『あそび』でもある」からと述べておられる。その趣旨は、「労働とは本来労働者にとっての自己実現であるべきもの」だからというのである。仕事を通じて感じられる自らの成長と達成感は、好きなことに没頭して得られる充足感に類似するものであるとの意味であろう。数十年にわたって従事することになるかもしれない「仕事」には、モチベーションを持ち続けられる「何か」が必要であり、それを創造していくことも労務管理・教育訓練の任務であるかもしれない。
日本の高度成長は、仕事による人間関係の広がりや困難を突破した時に感じられる自負心など、当時の労働者の自己実現が生み出した結果だったように思われる。時代は変わっても、人間自体が大きく変わったわけではない。すでに余裕を失いつつあった日本の企業が、コロナ禍によってさらに追い詰められ、労働者の育成を放棄することになってしまわないか心配でならない。
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アフターコロナの雇用社会と法的課題
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