記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画「ルックバック」創作は誰かの犠牲の上に成り立っているのか?


皆さんこんばんは。月曜日の夜、いかがお過ごしですか。
今宵お相手いたしますのは、 坂口あんこでございます。

今日は危険な暑さでしたね。もうびっくりするぐらいもう暑くて、、、一瞬外に出ただけでも、 肌に汗がまとわりついて、少し息苦しい感じもありましたけども。これでまだ7月上旬ということで、 本格的な夏がやってきたらどうなるんだって話ですよね。皆さん、お部屋を涼しくしてこのラジオ聴いていただければなと思います。昨日の本編では、 映画「ルックバック」のお話をしました。
漫画原作である本作がなぜ映画化に成功したのかをあんこなりの解釈で
お話をしてみたんですけども、いかがでしたでしょうか。
で、今日のアフタートークでは、昨日お話しできなかった本作の内容の方についてしていきたいなと思います。ネタバレを含む可能性ありますので、まだ未鑑賞の方はぜひ劇場でご鑑賞いただいてから、またこのラジオ聞いてもらえれば嬉しいですね。
そもそもね、なまずくんの話をしていなければ内容について触れられたんじゃないかって、 そう思う方もいらっしゃると思うんですけども。
まあ、まあ、まあ、まあね。シン堕落論は本線から脱線しがちなラジオですから、ゆるくゆるくやっていますので、どうぞお付き合いの程よろしくお願いします。


第7回のこのシン堕落論で「落下の解剖学」という映画を扱ったんですけども、そのアフタートークで夫婦関係の幸福のバランスについてお話したと思うんですよね。
もし聞かれてないようでしたら、短いですしそちらを聞いてからの方が、今回よりわかりやすくなるとは思います。
簡単に説明すると人間関係において、運というか、幸福のバランスが決まっているんじゃないかっていうことなんです。
落下の解剖学においての夫婦関係っていうのは、 妻が売れっ子の小説家で、夫はまだ小説家になれずにいる小説家志望の男なんですよね。この2人には、大きな才能の差があったといえばそれまでなんですけども、夫はこう言うんですよね。
「自分の犠牲の上に妻の成功は成り立っている」っていう。
それは物事で言えば、家事であったり、子育てであったりっていうのを言っていたとは思うんですよ。ただ、あんこの解釈では、この2人の幸福の総量っていうものがあらかじめ決まっていて、そのバランスが著しくこの夫婦は悪かったんじゃないかなと思ったんですね。
10という幸福の容量があった場合に、「落下の解剖学」の夫婦は、極端な話、妻が10で夫が0であったんじゃないかなと。だから、 夫が正しく言っているように、自分の犠牲の上に君の成功はあると言ったのは、的を射た言葉だったと思いますね。
それで、今回のルックバックなんですけども、どうなんでしょうね。
藤野さんと京本さんの関係性ですよね。僕が思うには、正直言うと少し歪だなと感じました。
もちろんね、創作を通して2人で高め合っている場面であったり、友情を育むっていうシーンもあるんですけども、
京本さんが「家から出られない私を救ってくれてありがとう」とですね、帰りの電車で藤野にさんに言うんです。でもこれって、家を出たのは、京本さん、あなた自身の意思であるでしょっていうことです。藤野さんは、あくまできっかけに過ぎなかったんですよね。
後半ですね、扉を挟んで世界が2つになって進行するですけども、世界の一方で、京本さんは自分の意思で外に出て、AO入試を受けて、美術大学に入るわけなんです。
で、もう一方の世界では、藤野キョウ名義で連載が決まると、京本さんはコンビ解消を申し出て、「美術の大学行きたい」って言うんですよね。
でも、藤野は反対するわけです。「あなたには無理」だって。「コンビニもまともに行けないじゃない」って。「大学に行ったって無駄じゃん」。「あなたは私についてくればいいの」って言うんですよね。
藤野さんは無自覚であると思うんですけども、 もう本能的に察知していたんじゃないかなって思うわけです。
彼女は自分の成功っていうのは、京本さんなしでは成し得ないとわかっていた。京本と自分が1つになって初めてうまくいくと。


あんこは、創作で成功する上で、この藤野さんの考えってあながち間違ってはいないと思うんです。どうしても誰かの犠牲の上に成り立つものがあると。 自分の犠牲だけではダメであるっていうのを、彼女は小学校6年生で気づいているんですよね。
こういう人は大勢いると思うんですけども、僕の周りでも結構多い気がしますね。 本人は無自覚なんだけども、最も身近な人が犠牲っていうかね、強いられているっていうか、バランスが悪い状態になっているっていうことが多い。
これは、そうですね。良い悪いっていう道徳感情とちょっと別の話になる。なるんですよね。。。
「落下の解剖学」でも、この部分が物語のコアであったと思います。
夫は最終的に、おそらくなんですけど、自ら死を選んだわけです。

これをあんこはですね、創作のドーナツ化現象って呼んでるんですけども、ドーナツの中心と、その周りって空洞ですよね。クリエイターもしくは表現者。その人たちを中心と捉えるならば、バランス関係で幸福が搾取されている人というのが、その中心の周りにいるっていうことだと思うんです。
ただ、この中心からどんどん離れていくと、その外周ではドーナツを味わうことができると。その外周にいるのが私たち読者であり、観客であるのかなと。
だから、中心の身近にいればいるほど、犠牲であったりとか、幸福の搾取であったりとか、 バランスの悪い関係性が空洞化を引き起こすじゃないかな。
ただ、それによって生まれるものが外周にドーナツを出現させる。
それを私たちはそれこそ無自覚的に味わっていると。映画にしろ音楽にしろ、そういったものを味わっているんじゃないかなという風に思うわけなんですよ。

話を元に戻すとですね、 京本は藤野に対して「一人の力で生きてみたい」と申し出るわけなんです。
それはやはりフジノから離れて自分の力を試したいという宣言だったと思うんですけども。
不思議なんですけども、コンビを解消したはずの二人なんですけど、 バランス関係っていうのは一向に解消されてないんですよね。
藤野は漫画家として成功していく。
で、その一方で、 京本はあまりにも理不尽な事件の被害者になってしまいますよね。で、ここで藤野はようやく気づくわけです。
「私のせいだと。私が外に引っ張り、引っ張り出したからだ」って。。
この理不尽な世界に気づくわけです。
コンビを解消したはずなのに、どうしてこのバランス関係っていうのは解消されないままであったのかっていうと、その答えはおそらく1つなんですよ。
それは、京本は藤野から離れてはいなかったんですよね。
京本は「美術大学行って画がうまくなりたい」っていうことで自らの意思で行くのですが。。
画がうまくなってというのは、きっと、藤野の役にもっと立ちたいと、うまくなって藤野の元に帰ろうとしていたんじゃないかって感じたんですよね。

だから彼女たちの関係性っていうのは、コンビ解消したはずなのに続いたままであった。 で、あの悲劇が起きてしまった。
昨日、本編でなぜ藤野のプロでの成功っていうものを描いたのかのは、そういったバランス関係を崩したくなかったんじゃないかなと。作者はあえてそうしたんじゃないかなって、あんこは勝手に想像したんですけども。
この世界は人と人との関係性においても理不尽に溢れているっていうものですよね。(もちろん良好なバランス関係が大多数と信じたいです)

救いだったのは、もう一方の世界で京本さんは生き残って。
あの二人の関係性はバランスがうまく取れたものになっていくんじゃないかなって想像しています。恐らく漫画での成功はないかもしれないんですけども、二人はずっとずっと大好きなね、漫画を2人で書いてお互いを高め合っていったんじゃないかなって思います。 ていうか、そうあって欲しいですよね。
この解釈は、あんこが勝手に妄想しただけですから、作者の方とか、監督さんがそう考えて作っているってわけではないと思うんですけども。
ただ、いい映画っていうのは、観客である私たちがその映画を観て、様々な解釈を与えることで、 その映画っていうのは時代を超えて残っていくんじゃないかなって思っています。

以上ですね。「ルックバック」の内容について、あんこなりの解釈を通してお話してみました。最後まで聴いていただきありがとうございます。
来週は 間に合えばなんですが、以前からお話していました、日本人監督の処女作トップ10をやってみようと思っています。どうぞお楽しみにしていただければと思います。それではですね、月曜日の夜、 最後まで聴いていただきありがとうございました。暑いですので、 お部屋のクーラーつけるとか、窓開けるなど、あとは水分補給するなど、気を付けながらお休みになってください。

お相手は坂口あんこでございました。
グンナイ。

メモ

今回の投稿はシン・堕落論 『第20回 映画「ルックバック」アフタートーク 創作は誰かの犠牲の上に成り立っているのか?』を修正・加筆したものとなります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?