俳優・林遣都の魅力をプロライターが本気でプレゼンしてみた④

前回に引き続き、今回はほとんど『しゃぼん玉』の作品評である。ネタバレは極力避けているので、本作を観たことがないという人はぜひ観てみてほしい。派手な起承転結はないが、静かな味わいのある作品だ。忘れかけていたものを思い出し、心が優しくなるような、そんな作品。だからこそ演者は、演技力だけではなく人間力が試される。シンプルな作品であればあるほど、役者自身に魅力がなければ成り立たない。林遣都はその若さで、見事に役を演じきった。彼自身も、作品も、もっともっと評価されていいはずだ。

■憎めない、イズミという男

椎葉村にやってきたイズミが、初めてまともに話しかける相手はスマの飼い犬・ゴンである。

「よう、バカ犬」
「おまえ、バカなんじゃねーのか」
「俺、人殺してるんだぞ」と、脅しているのかなんなのか分からないが、ゴンに対しては自分から声をかけている。

ゴンもまた不思議と、イズミを警戒しない。
(バカだと言われてご立腹といった顔を見せるのがかわいらしい)

こういったやりとりから、イズミという男の人間らしいところ、かわいげのあるところが少しずつ観ている側に伝わってくる。

これまでのイズミはどんな暮らしをしてきただろうか。話し相手は、挨拶をする相手は、心を許す相手はいただろうか。
相手が物言わぬ犬だから声をかけたのだろうか。自分のしたことを、誰かに言って楽になりたかったのだろうか。

ほんの少し笑みを浮かべながらゴンと関わるイズミの姿を見ているうち、そんなことを想像した。

モノローグのない世界で、人々との関わりや行動ひとつひとつを通し、イズミという男の輪郭が描かれる。

たとえばイズミは、スマや村の人々を「じーちゃん」「ばーちゃん」と呼ぶ。意外にも、ジジイ、ババアとはいわない(キレて一度言ったが)

生意気ながらも子どものような言葉遣いには、トゲがない。高齢者に対しても、ごく普通に話をする。偏見がないのだ。

苛立つと少々言葉は荒くなるが、それは若さゆえと言ったところだろう。

「ありがとう」や「ごめん」といった言葉や挨拶も、うまく言えない。しかし、黙って軽く会釈をしたり、気まずそうな顔を見せたりする。

イズミという男が、完全にすれてしまった青年ではないことがよくわかる。秀逸な脚本であり、演技だ。

近くに住むシゲ爺に誘われて、金目当てで手伝い始めた山仕事や祭の準備も、当初こそ嫌々であった。そのうち自主的に早起きをし、シゲ爺を待つようになる姿がなんだかかわいらしい。

これまでの人生で、夢中でなにかに取り組んだことがなかったのかもしれない。
くもっていた瞳に、光が灯る。うつむいてばかりいた顔が、少しずつ前を向く。イズミにとって山仕事や、村人と一緒になって取り組む祭の準備は、刺激的であり、楽しいものであったのだと分かる。

■叱咤される愛、肯定される愛

スマがイズミに与えた優しさや、ぬくもり。それらが物語の中心となるが、綿引勝彦(敬称略)演じるシゲ爺もまた、スマとは形の異なる愛や信頼を、イズミに与えたひとりである。

あるシーンでの、二人の会話、そしてやりとりが印象的だ。

「本当のことを言ったら怒るくせに」とすねるイズミに対し、
「わしは怒ったりせんぞ」とシゲ爺が返す。
「すぐ殴るじゃねーか」とまた、イズミが返すと、こづいただけだろうがとシゲ爺は笑う。

イズミの「怒る」と、シゲ爺の「怒る」は違う。さらに言えば人間関係は、怒って怒られて、それで終わるような簡単なものではない。そのことに、イズミは次第に気付いていく。

口では厳しいことを言い、ときには頭を小突きながらも、イズミがにぎり飯を落とせば、シゲ爺は黙って自分のにぎり飯を分けてくれる。

イズミを置いてどんどんと深山に入っていきながらも、必死でくらいつくイズミを、そっと待っていてくれる。

さんざんだったはずの初めての山仕事の帰りには、スマの前でイズミを褒め、その頑張りを認めてくれる。

親の愛をまともに知らぬイズミは、褒められることもなければ、きちんと怒られることもなかった人生だったのだと思う。

叱咤してくれる人がいること、そして認められることの嬉しさを、シゲ爺に出会って初めて知ったのかもしれない。

シゲ爺は、イズミにそういう“愛”をくれる存在だった。

スマの愛もまた、親が子に与えるそれだ。身綺麗にしておくこと、箸の持ち方…きっとイズミが「教えられてこなかったこと」をスマは優しく諭す。

朝、目覚めればすぐに食べられるよう食事を用意してやる。出かけるときには、にぎり飯を持たせてやる。寝起きは寒くないかと、身体を気遣ってやる。

無償の優しさを与えてくれるスマとの暮らしのなかで、イズミは笑うようになる。イズミのドジを、スマとふたりで笑い合うシーンは印象的だ。ときには高齢のスマを気遣い、手伝いをするようにもなる。

そしていつでもスマは言うのだ。「坊はええ子」と。

■このセリフを聞いてほしい。不器用な男の愛の言葉

幸せな日々は長くは続かない。あることをきっかけにイズミは、いよいよ現実と向き合うことを決める。

緩やかだが、本作にはしっかりとした起承転結がある。その都度、その都度のイズミの心の機微を、林は実に丁寧に演じている。

物語の終盤。イズミは、スマの家を出ることを決意する。いつも二人で夕食を囲んだこたつで、イズミはスマに、ある言葉を切り出す。

この、たったひとことのセリフにやられた。

それは、学もなく難しい言葉も知らない、不器用なイズミという男が、心の奥底からしぼりだした願いであり、最大級の愛の言葉だった。

幼い言葉選びがイズミらしい。震えるような小さな声で、大きな瞳をうるませながら、イズミのたったひとつの願いを林が言葉にしていく。

帰る場所、帰りたい場所を見つけたイズミの、祈るような言葉。

その願いは、叶わないかもしれない。イズミもスマも、それを分かっている。だからこそ、この言葉を切り出したイズミの心情を思うとつらい。ずっとこの日々が続けば良いのにと思ってしまう。

スマは、涙ながらのイズミの願いを受け入れる。約束を交わす。いつかそれが、優しい嘘になるとしても。

重ねてきた罪を告白してもなお、スマはイズミを「いい子だ」と言う。頭をなで、頬を包む。イズミは、まるで子どものようにくしゃくしゃの顔で泣きじゃくる。

はじめてスマと出会ったときとは、まるで異なる表情。生きていくために身を守ってきた、見えない硬い鎧も、棘も、埃も、すべて洗い流されたまっさらな青年がそこにいた。

自分が罪を犯した人間だと知っても、それでもなお愛をくれる人。
償ってきなさいと、待っていると、にぎり飯を持たせ、見えなくなるまで見送ってくれる人。

そんな相手と出会い、過ごす日々のなかで、イズミはあらためて伊豆見翔人として生きることができた。

心を入れ替えたのでもなければ、生まれ変わったのでもない。

スマには母のような優しさを、シゲ爺には父のような厳しさをもらった。だれかの役に立ち、感謝された。くたくたになるまで働いたあとは、温かい風呂と食事、布団が待っていた。

灯りのついた家で、自分を待っていてくれる人がいる。

人間らしい時間とやすらぎのなかで、優しく純粋な、本来の伊豆見翔人を取り戻したのだ。

ラスト。村へと戻ってきたイズミの、数分間にわたるセリフのない演技。まさに林遣都の見せ場だ。
表情に垣間見える、希望と不安。完全に、イズミに感情移入してしまう。息を止めて、祈ってしまう。

遠くに、ある人を見つけた瞬間の表情。瞳。足取り。懐かしい道。灯りのついた家…。
物語の終わりこそ、伊豆見翔人の始まりだった。

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次回:プレゼン最終回。なぜ林遣都について書こうと思ったのか。
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