人生にムダな経験など何ひとつない
なんて嘘だろ、と思っていた。若いころは。
でも今は「まさにそのとおりだな」と、身に染みて感じるようになった。大人になったものだ。
もっと早くライターを志せばよかった、と思った時期もある。遠回りをしてしまったな、と。
しかし、どう生きるにせよ、私の人生において『作業療法士になる』という選択は絶対に必要だった。
作業療法士にならなければ、いまの私という人間はいない。心からそう思う。
「経験」という視点だけでみても、作業療法士として培ってきたものは、ライターとしてじゅうぶんに活きている。
たとえば、記憶力。
私は日ごろ、少なくて6名、多い日には20名ほどの患者とそれぞれ1対1で接する。
なかには当然、初対面の患者もいる。言葉を話すことができない人や、どうにもコミュニケーションをとることが難しい人もいる。
患者の目の前でメモをとらないのが私の信条。関わっている時間は、患者の一挙手一投足から目を離さず、五感を集中させる。
そうして夕方になると、全員分のカルテを一気に書く。
私は、患者と過ごした時間をまるで映像のようにありありと思い出すことができる。
患者が何を話したか、どんな表情だったか。メモよりも正確な情報が、目の前に浮かぶ。
私はそのビジョンを見ながら、要点をついて分かりやすくまとめるだけ。
情報量は、誰にも負けない。
こうして過ごした毎日が、いま取材に活きている。
限られた時間。メモをとるよりも、話を聞くほうが有益だ。
下を向いたままよりも、目を合わせて話すほうがおそらく感じもいいだろう。
話の内容、こまかな情報、声のトーンや表情、相手の気分、そういったものを長く正確に覚えておくことができる。
もはや、覚えることがクセなのだ。
これは、作業療法士として働いた日々がなければいまだ会得していなかったであろうスキルだ。
そしてコミュニケーションスキルも、作業療法士の経験があったからこそ身に付いたものだと思う。
ただ話すとか聞くとか、すぐに仲良くなれるとか、そういうことではなくて。
(むしろそういう意味ではコミュ障の域に入ると思う)
傾聴すること、言ってほしい言葉をかけること、聞いてほしい質問を投げかけること、たとえばそういったスキルだ。
医療者、とくにマンツーマンで接する機会の多い治療者は、相手の気分を読むことに長けていると思う。
感情は読めない。
読めたつもりになるのは恐ろしいことだ。
気分は読める。コントロールもできる。
相手を気分良くさせることができれば、不思議なほど饒舌になる。
リラックスできるようはからえば、心のうちを不意にこぼしてくれることもある。
そういったスキルは知らぬ間に身体にたたきこまれていて、
いま、取材という意外な場面で活きている。
これだけじゃない。
作業療法士をやってきたからこそできること、私にしかできないことは必ずある。
少なくとも私はそう信じているし、私は私を認めている。
ようやくそう、胸を張って言えるようになったのは、行きたい道が見つかったからだ。
行き先がちゃんと分かっているから、あとは目指すだけだ。
さて、これから歩いていくのだなと思うと、人より多く武器を手にした自分を頼もしくさえ思う。
遠回りした、なんてもう思わない。
人生にムダな経験など、何ひとつない。
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