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【NEWS】変わるワーホリ~元経験者のつぶやき(笑)

超円安時代に入り、海外で働く若者が増えているそうです。中でもワーキングホリデーが人気だそうで、ワーホリビザでの海外渡航者は増加しているそうです。実は、20年以上前になりますが、オーストラリアにワーキングホリデービザを利用して渡豪したことがありまして、ワーホリの話題を見つけ、懐かしくもあり、いろいろ様変わりしたワーホリ事情に驚いてみたり。今回はそんな40オヤジがワーホリ経験を懐かしむネタをご紹介したいと思います(笑)


まずはニュース記事の確認から

20年前はこんなんでした・・・

以下、頭の中にある思い出だけで書いていきますので、多々思い違いがあるかもしれませんが、ご容赦下さい。当時はオーストラリア、ニュージーランド、カナダとイギリスぐらいだったように思います(もしかしたら韓国もあったかも)。私はその中でオーストラリアを選び、準備を進めました。

ワーホリのきっかけ①学生時代の海外旅行

そもそも海外熱が高まったのは、始めて海外旅行をしたのが大学3年時だったのですが、全く英語がしゃべれなかったにも関わらず、単なる観光(米国ロサンゼルス)でしたが、めちゃくちゃ楽しかったことがきっかけです。翌年に卒業旅行で友人と欧州を回ったのですが、そのまま社会人になっても海外熱が冷めず、1年半くらいで第一次ドロップアウトを決め、ワーキングホリデーによる海外渡航を決意したという次第です(こうしてみると、このときすでに退職して転職して・・・ということをやっていたわけですね)。私の一番の目的は「英語力をつけること」でした。

ワーホリのきっかけ②職場での会話

面白かったのは、ワーキングホリデーについて知ったのが、社会人になってからの職場でアルバイトをしていた同年代のスタッフさん(←この時代に東南アジアを放浪歴のあるなかなかユニークな方でした)との会話だったことです。休憩中に海外に興味がある話をしていたら、「ワーホリってのがありますよ」とのこと。全く知らない世界だったので、いろいろ聞いていくうちに、どんどん気持ちが高まり・・・という流れでした。

渡豪までの流れ

当時はそれほどインターネットが普及している時代ではなかったですから、なんとか調べて中野にある「ワーキングホリデー協会」を探し、そこで行っている英会話レッスンにも通いました。まあ、これが役に立ったのか否かはよくわかりませんが、一緒の夢を持つ人たちと知り合えたのは心強かったですね。その協会を利用して、ホームステイ先と語学学校を紹介してもらい、ビザを申請して(もう忘れましたが、もちろん大使館ですよね、多分)、チケットを準備し、いざオーストラリアへ。場所は西海岸にあるパースを選びました。

パースは第二の故郷(と勝手に思っている)!

パースを選んだのは、当時、メジャーだったのがシドニー、ブリスベンといった東海岸。そしてメルボルンも人気でした。そうした都市だときっと日本人も多いだろうな・・・と勝手に考え、ここは逆張りで西海岸だろう、という安直な考えによって選びました。で、これが大正解でした(ま、恐らくどこであっても大正解だったんだと思いますが・・・笑)。

パースは西オーストラリア州の州都で、気候も穏やかで、当時は過密になりすぎるほどでもない人口で、ゆったりとした雰囲気でした(唯一の問題は「水」。あまり雨が降らないんですよね)。ホームステイ先も、とても感じの良いファミリー(なぜかチェコ人でした)で、親切にしてもらいました。

語学学校のメンバーが最高だった!

ここからは恥ずかしい話。なんと語学学校では簡単なテストを行うのですが、あまりにちんぷんかんぷんで、一番下のクラスに入れられる始末。一応、大学にまで出て社会人もやってたのにな・・・と、そこまで卑屈には成りませんでしたが、やっぱりそうか・・・って感じでした。台湾の中学生とかアジアの若い子たちに交じって一緒に基礎から勉強していました。特に彼らは文法はメチャクチャでもとにかく「喋る」んですよね、ここだと思います。一方の私は、なまじ文法を考えてしまってフリーズする毎日・・・うーん、懐かしいな。

そんな出来損ないですが、語学学校で出会った日本人メンバーがとても素晴らしかったことを覚えています。というのも、当時私が一応社会人だったことが功を奏したと思っています。そうした背景もあり、社会人メンバーの仲間入れて貰えたので、皆さん「本気」だったんです。ここで語学力をつけて日本に帰って仕事に活かそう、という「熱い」面々ばかりでした。そう、当時は長く続く不況の時代。同じ氷河期世代ですので、本気度も違ったのでしょう。もちろん常にベタベタした付き合いとかではないですが、一緒に勉強を頑張るメンバーに入れて貰え、刺激を受けたことを覚えています。

そしてラウンドへ!

当時、語学学校へは3ヶ月という決まりでしたので、その期間を経て、いよいよバックパッカーデビューしてラウンドの旅に出ました。まずはパースからインパシ(インド・パシフィック鉄道)に2日乗ってアデレードへ。数日滞在してからガン号に1日乗ってアリススプリングスへ。今は登頂禁止のエアーズロックへ登り、近くにある名所を廻るツアーに参加し、そこで知り合ったメンバーとまた別の旅先でも一緒になるという偶然なんかもありました。当時は毎日バックパッカーズと呼ばれるドミトリーで寝泊まりしていましたから、自然とそこで同年代の同じようなバックパッカーたちと会話に。こうした中で自然と英語を使う中で少しずつ掴んでいったような気がします。


今はワーキングがメイン!?

ということで、私の場合、目的が「英語力をつける」だったので、語学学校に通うこと、さらには旅行をしてオーストラリアを回るということがメインでのワーキングホリデーでした。当時は働くといえば日本食レストランかフルーツピッキングくらいで、前者は日本人社会で過ごすことになり、ほぼほど日本語生活、一方のフルーツピッキングは過酷で稼げるお金も微々たるもの・・・という時代でした。

それが今ではそうした仕事(別に卑下しているわけではないです!)もかなりの高給になるようですね、記事によると。そのため、私のような英語や旅行というよりはまさに「出稼ぎ」のために海外へ行く、ということのようです。もちろんそれが目的であれば、しっかり稼げるわけですから、全く問題なのですが、いやはや時代は変わったな・・・とジェネレーションギャップに驚くばかりです。

令和のワーキングホリデー事情にビックリ

また、記事によると働き具合によっては「セカンドビザ」「サードビザ」というように、複数年滞在できるというシステムもあるそうです。これによって数年間働きながら、現地に滞在・・・という働き方も出てきたとか。そんな風にしつつも、もしかしたら日本に帰る頃には、日本でフルタイムで働いている方たちと同じか、もしくはそれ以上の財産を築いているかもしれませんね。まあ、これは羨ましいというよりも、こんな日本になぜなってしまったのか・・・と申し訳ないですけど、この30数年の政府の失政に物申したくもなりますが・・・。

ワーキングだけでなく、現地でいろいろ吸収して欲しい

かつてワーキングホリデービザを活用した「先輩」として思うことは(ま、こういうことをいいたくなるから「老害」なんでしょうね・・・涙)、現地働くことも大事ですが、現地でしかできないことにもチャレンジしてほしいですね。現地の言葉を覚える、その国を旅して違いを知る、文化を吸収する、また私のようにドミトリー生活だとすれば、毎回いろいろな国の若者たちと知り合えるはず。彼らと交流することで、自分の知らなかったことを知ることもできると思います。これもまた「財産」だと思うんですよね。それになにより「稼ぐため」のみだと勿体ない!日本との違いを知るからこそ、改めて日本の良さに気づいたりすることもできると思うんですよね。


(おまけ)私のワーホリ後・・・

実は、感化を受けやすい私は、ラウンド中に知り合った相部屋の外国人(たぶん概ね同世代)が自国に誇りを持っていることに影響を受け、ぽろっと「いいね、行ってみたいな」と話したら、「ぜったいおいでよ!案内するから!」と結構気軽に言ってくるもので、実際にコンタクトを取っておいて、帰国後半年くらいしてから、再びヨーロッパへバックパッカー旅行に出ました。ま、彼らは「本当に来たの!?」って感じでしたけどね(笑)。これもまたいい思い出です。ということで、私の個人的感想にはなりますが、ワーホリは自分の中でのかけがえのない体験の一つになっていますので、ぜひ「ワーキング」だけでなく、いろいろな意味で「ホリデー」も充実させて欲しいな、と思っています。ま、これもまたお節介老害かもしれませんが・・・涙。

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