背中で泣いてたよ…
秋田県は男鹿のゴジラ岩から始まりますが、特に意味はありません。
さて、「幸せとは?」では僕の生まれ故郷の千葉県千葉市美浜区幸町から始まりました。ここの地でのストーリーをしばらく続けたいと思います。
母親は僕が16歳の時に亡くなったので、昔の話を聞ける人がいません。父親は健在ですが、男親と言うのは子育ての事を覚えている人は少ないと思います。少なくともそんなバブル期を経験している男親なんて今みたいに子育てに参加してる人は少ないので、それはしょうがないでしょう。
今、僕は2人の男の子の父親としてかなり密に子育てに関わってますが、既に多くの事を忘れてます。そもそも男なんてそんなもんなのかな。
と言う事は今の僕の記憶も定かではないですが、幼少期を振り返りつつ、なぜこんなモンスターのような立ち振る舞いをして来た半生?(長くないかもしれないのでほぼ人生になるのかもしれませんが)、になったのかを思い出してみようと思います。
幼稚園の頃の記憶はほぼありません。住んでるマンションの1階が幼稚園で、4階の住居から降りたらすぐ登園。小学校5年生までおねしょをしていたので、園庭から見える所におねしょ布団を干す母親のデリカシーの無さが嫌だったのと、足を怪我して縫って痛かったのと、鳥小屋に入って背中にフンをされ、みんなに嫌がれて痛く傷付いた事しか覚えてない。
何ともつまらない幼稚園生活でした。この時はゴボウ足くんと言われる位細くて、その割に異常なほど汗をかく子で、いつも何かに不安を覚えていました。小児喘息が辛くて、客観的に言うと虚弱体質だったんだろう。運動するよりお家でゴロゴロしてるのが好きでした。
小学校に上がると、サッカーを習わされた。公文、家庭教師、絵画教室…頭の悪い僕には一切響かず、この頃になるといつも人に先導してもらい、何ひとつ自分で考えてやろうとしない子になってました。親に言われた事を嫌々してるので、いつも「人のせい」にしていた。そして「めんどくさい」から続かないのです。
今もそうですが、僕には趣味がありません。お芝居に出会わなければ好きな事を自分で見つける事も出来なかった。嫁さんと出会わなければ人を愛する事も知らなかった。子供の頃からそんな人格が形成されたんだろうなぁと思う。
自分の子供達を見てて、ちゃんと自分で興味ある事を見つけているのを見て、今のところ少しホッとしたりします。好奇心こそ、人を成長させる大きなエネルギーの1つになると思うので、僕みたいに「めんどくさい」が自分の足を引っ張る様にならないような人生を歩んで欲しいです。
三つ子の魂百までといいますが、大人になっても「めんどくさい」病を患ってます。こうならない様にするには、どう言う環境に身を置けば良かったか、検討もつきません。
幸せだと感じていた幼少期。不安な心を刺激しないからこそ幸せだったのかもしれない。僕は静かに暮らして来ていたら、もっと温厚だったかもしれない。千葉で一生を終えると思っていた。確か小学校5年生位までは…。
ある時、母親から「小学校卒業したら、川崎のおじいちゃんの所に行くからね」。この言葉を聞いても嘘だと思っていた。
小学校6年生になって、その話はいよいよ具体的になり、子供心に行きたくないと反発していた。友達と、好きな子と、この幸町と言う平和な町と別れるのが嫌で嫌でしょうがなかった。
子供の時の世界って、極めて狭い。でも思い出も含めてその世界が崇高で、大人になっても忘れられない自分の枢になる大切な場所。大人の事情がこの時は何だか分からなかったが、僕には「おじいちゃんも年をとって来たから」と言うざっくりした理由。
子供にとって住む家が変わるだけでもかなりショックなのに、愛着どころか、世界をもぎ取られるのは、人生の多くを根こそぎ奪われてる気持ちになった。一般論ではないかもしれないが、僕はそんな気持ちだった。
そして僕は、自分の主張が何なのか分からず、モヤモヤと別れの哀しみを抱えて、幸せの町から離れるのです。
僕の精神の水面下で自己防衛の意識がグンっと強まったのは、本人も親も気付かなかった…。
馬鹿でも多感なスポーツ刈りのとっちゃんボーヤは幸せな町を泣く泣く後にしました。
つづく
まだまだ分かってない新参者ですが、1つの大切な表現としてコツコツ積み上げて参ります。