朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(11/27)

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真壁玲子は、もう一つの「日本国の経済および安全保障」に関して説明を始めた。

1960年代は、アメリカが一番豊かだった時代だ。
高度経済成長の時代を迎えようとしていた日本は、すべてを、アメリカを手本とした。
しかし、既に繊維業界で、日米間の貿易摩擦の火種が生まれ始めていた。
アメリカにしてみれば、復興途上の日本など、相手にはしていなかった。
鉄鋼、自動車、家電で世界最先端だったアメリカ企業は、日本企業に各種技術を伝達する「教師」のような存在だった。

しかし1965年以降、日本の対米貿易黒字がアメリカは見過ごせなくなってくる。
1970年代になると、アメリカは長期化するベトナム戦争で疲弊してくる。膨大な貿易赤字を前に、アメリカ経済がもうもたないという状況まで落ちていく。
その結果1971年には、円・ドルは、固定相場から変動相場に切り替わる。ニクソンショックだ。
これを機に、円は1ドル360円から、308円まで一気に円高が進む。こうして日米間の本格的な貿易摩擦が本格化する。

日本企業にしてみれば徹底的なコスト削減で努力し、輸出で利益が出ても、円高になれば利益が目減りする。日本企業は円高とアメリカからの圧力に対抗するために企業体質を強化してきた。

ベトナム戦争後、アメリカは本格的な不況に突入する。アメリカは日本に対して圧力をさらに強め、日本は繊維、鉄鋼、カラーテレビ、自動車などの輸出自主規制に踏み切ることで、貿易不均衡の是正に努めた。

いっぽう1980年代になると「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を迎える。
1985年には、アメリカの財政赤字状況がさらに悪化し、それまでのドル高対策では対策では好転が見込めず、ドル高を是正。ドル安・円高にすることで、輸出減少と輸入拡大を是正する「プラザ合意」となった。
プラザ合意は、ニクソンショックの再来を恐れた日本側の働きかけで実現した。
それを手引きしたのが、日米の政財界に顔の利く、フランク神津竜一だったというのだ。

アメリカ側にしても、貿易問題へ打つ手がなく、神津の提案を受諾した。
プラザ合意の発表後、急速に円高が進み、1年後には1ドル150円で取引されるようになる。
これを機に、日本の自動車業界、家電業界は、工場ごとアメリカに進出することとなった。

2000年以降の日本企業の海外進出は、人件費削減を主な理由としている。
しかし1980年代は、円高対策だったのだ。円高では、日本国内でいくら製品を作ってもアメリカに輸出すれば赤字になってしまう。しかし巨大マーケットであるアメリカの市場確保のためには、やむを得なかった。こうして、日米経済戦争といわれる状況になっていく。

1988年には、アメリカで「スーパー301条」が施行される。日本からアメリカへの輸出が多い半面、アメリカから日本へは輸出が伸びない。そのため関税を上げることで、輸出入のバランスを図ろうとしたのだ。ここで取り上げられたのが、牛肉とオレンジだが、結局30年以上経過しても、その品目がアメリカから輸出が増えることは無かった。

1990年代になると、アメリカは「金融の自由化」「金融緩和」「内需拡大」を、日本に突きつける。
金融緩和・自由化により、アメリカの銀行や証券会社が、日本市場にこぞって参入した。
しかし内需拡大は、アメリカ製品がそこまで一気に売り上げ拡大につながらない。
そのため、日本銀行が、湯水のごとくマネーを市場に出した。それにより、マネーの価値が下がり、円安となった。円安になれば企業の資金や借入が増え、景気が良くなり、消費が活発になり、結果的に内需が拡大するだろうと見込んだ。
ところが市場にあふれたマネーは、消費活動には回らず、資産市場に流れた。バブル経済である。
その後、バブルが崩壊した一方で、日本の貿易黒字は続いた。
バブル崩壊のあおりで不況が長期化したことから、日本企業は、その活路を海外に求めた。
それが、この30年の日本とアメリカの経済の話である。

安全保障の話は、もっと根が深い。

戦後は、米軍による、一般市民への抑圧、宣伝があった。
いかにも「アメリカは世界平和と民主主義の味方」であり、「日本を解放するための戦争」をやり、「原爆も空襲も戦争を終結させるためにはやむをえなかった」かのように徹底的に宣伝した。
戦前以上の言論統制と弾圧をやり、反米につながる原爆や東京空襲についての言論を封殺した。
「ウォー・ギルト・プログラム」である。

沖縄が「前線基地」なのに対して、「司令部」が集中しているのが首都圏だ。
東京をはじめ首都圏は、沖縄に次いで米軍基地が多い。
日本の支配中枢を軍事で抑えつけることで日本全国を占領下に置く。
その目的のために、東京大空襲であれほど一般庶民を殺害し、戦後も軍事力を配置したのだ。

東京都だけでも総面積は約1603ヘクタール(東京ドーム約340個分の広さ)に及ぶ。
空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地や自衛隊施設へ変わった。

東京都港区六本木にも「赤坂プレスセンター」といわれる米軍基地がある。
その中身は、陸軍研究事務所、海軍アジア室、米軍の機関紙「星条旗新聞社」、保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地だ。横田基地を経由して日本に侵入する基点として提供され、入国審査や税関などの規制は一切なく、ここから入国する人物については情報公開義務がない。
地図上でも「白地」にするほどの機密扱いだ。

神奈川県には、原子力空母を擁する米海軍第七艦隊の拠点である横須賀基地が盤踞し、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部など米陸軍司令塔であるキャンプ座間、相模総合補給廠、通信施設、燃料貯蔵施設、住宅地、演習場などがひしめいている。

横田基地は在日米軍司令部であり、すべての在日米軍と自衛隊を統括する指揮所だ。
横田基地は3350メートルの巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人もいる、米軍のアジア戦略における最重要拠点だ。
アメリカ本土やハワイ、グアムなどから運んできた兵器や軍事物資を相模総合補給廠に備蓄し、戦時になると横浜ノースドックから搬出し、横田基地から空輸する体制で、西太平洋・東アジアを管轄する兵站補給基地だ。

首都圏の上空には、「横田ラプコン」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)にまたがる、広大な米軍専用空域がある。
この空域の高度約7000メートル以下には米軍の許可なしには日本の民間機はいっさい進入できない。
羽田空港や成田空港を離着陸する航空機は、通常の離陸はできないため急激に高く上昇してラプコンを飛び越えるか、大回りしなければならない。
それが離着陸時の事故、ニアミス事故の頻発につながっている。首都上空を飛行するのに米軍の許可が必要な国など他にはない。

敗戦直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強な闘いで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。
朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川闘争で頓挫し「返還」されたが航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。
地元でも、道路はいつでも軍用滑走路に転用できるように、周辺には高い建物や民家の建築規制がある。

一連の経済戦争と、安全保障のフィクサーは、フランク神津竜一だった。
1980年代から1990年代にかけて、日米の貿易に関する激化の裏で、手ぐすねを引いていた。
アメリカも日本も、いずれも、その後20年に及ぶ不況が長期化。

一方で、「先を読んでいた」神津は、当然私腹を肥やすことができる。
しかも提案した政策は、当面効果的に見えて、結局、日米のどちらも得をしない政策であった。
「政商」とも「死の商人」とも言われた、神津が狙われるのは、時間の問題であった。
そのため、神津は表舞台から身を隠した。
米軍とCIAの厳重な庇護の元、活動していると言われていたが、所在はもちろん生死さえ不明。
闇のフィクサーと呼ばれるに相応しかった。

しばらくの沈黙の後、真壁が閉じていた瞼を静かに開いた。
「…戦後は終わっていません。
今年で半世紀を迎えましたが、日本が太平洋戦争で負けたとき、多くの権益をアメリカのエスタブリッシュメントたちがそれを簒奪していきました。戦争に勝ったのだから、当然、とばかりに。
そして、その権益は、いまだに戻ってきていません」
エスタブリッシュメントとは「特権階級」「支配階級」を意味する言葉である。

「その男が、東京にいるのです。いまこそ、戦後を終結させ、日本を取り戻す時なのです」
真壁が、力強く言った。

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