【連載小説】風は何処より(10/27)
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帰路に立とうと手桶を手にした途端、不意に声をかけられた。
「城所さん、城所正治郎さん、ですね」
後ろに立たれていることは、全く気がつかなかった。
黒のパンツスーツに身を包んだ、女が立っていた。
気温はそれなりに低いが、コートは着ていない。
40代だろうか。背が高い。
城所は170cmほどだが、女もそれよりも高い。
しかし、自分の知り合いに、こんな女性はいない。
女が「城所正治郎さんですね」と再び、老人の名を呼んだ。
「どちらサン?」老人が怪訝そうな顔で答える。
「失礼しました。わたし、真壁玲子と申します。すこし、奥様の事でお話がありまして…」と告げた。
「妻の?」老人は本当に驚いた。
なぜ妻なのだ?老人の前から、妻が姿を消して、もう40年近くなる。
妻の存在を忘れたことはない。しかし身内や友人以外の誰かから、妻について尋ねられたことなど、一度もない。
(この女、何者だ?)城所老人が訝しげな表情で、女を見つめた。
「失礼しました」と、言って女が、名刺を差し出した。
防衛庁 陸上自衛隊
三等陸佐 真壁 玲子
030-***-****
名刺には、それだけ刷られていた。住所は書かれていない。
陸上自衛隊ということは、軍人なわけだが、目の前の女性は軍人には見えない。
三等陸佐ということは、旧軍なら少佐クラスだ。
「自衛隊の方ですか」老人は短く言葉を放った。
「はい、奥様のことについてお話を伺いたく」と真壁玲子が応じる。
「妻はとっくの昔に死にましたヨ」吐き捨てるように老人が言う。
「はい、亡くなったのは1970年5月20日です」と、冷静な口調で返された。
「えェっ?」
飛び上がりそうなほど驚いた。
(なぜだ。なぜこの女は、妻のことを知っているのだ)
城所は、体中の毛穴が開く感覚を覚えた。額からは汗が噴き出す。
「ここでは何ですから、場所を変えませんか?」
女が墓地の出入口のほうに視線を向けた。
「…」
城所は、女の言うままに、外に向かった。
手桶を受付に返却し、線香売りの女性に会釈する。
寺が並ぶ路地を抜けたところに、白い車が止まっていた。トヨタ・アリストである。
運転席に、男が座っている。彼もスーツだ。
右の後部座席のドアを、女が開け「どうぞ」と、城所に乗車を促した。
車内は密室だ。
(これからどうなるのか)と憚られたが、致し方ない。
老人は、促されるままに後部座席に座る。
途端にドアを閉められた。
続けて、女が左側から回り込んで車に乗ってきた。
「お願いします」と女が運転手に声をかけると、ゆっくり車は寺の敷地を出て、左折した。
しばらく片側1車線の細い道を走る。
地下鉄の工事をしているため、道路の舗装が整備されておらず、十数メートルおきに車体が上下に揺れる。
車内は、だれも声を発しない。
城所老人は、口を一文字に閉じて、前窓を見つめている。手に汗がにじむ。
真壁玲子は、時々、城所老人のほうに目配せするが、話しかけたりはしない。
やがて2車線に道が広がり、車は速度をやや上げた。
「改めて、自己紹介をいたします」
ようやく車内の沈黙が解消された。女は凛とした口調で話す。
「私は、自衛隊のインテリジェンス・オフィサーです。城所さんの時代でいうと諜報員」
真壁は顔色を変えず、話し続ける。
「なぜ私が、奥様の情報収集をしているかというと、理由はふたつあります。
一つは日本国の経済および安全保障に関して、もう一つは個人的な側面です」
車は、50kmくらいのスピードで幹線道路を走り続ける。
「先に個人的な点をお話します、城所さん。実は、私は、千鶴の娘です」
「はァ?」先ほどよりも、大きな声で、驚嘆してしまった。
「ですので、私はあなたの娘ということになります」
玲子が、初めて、穏やかに微笑む。
「はじめまして、お父さん」
(そんな馬鹿なァ)城所は困惑する。
妻が失踪したのが昭和25年(1950年)4月だ。朝鮮戦争の年だ。結婚3年目にいきなり消えた。
自分の子種を抱えていたとして、確かにこの女性くらいに成長しても不思議ではない。
しかしなぜ今更、そんな者が目の前に現れるのだ。
「冗談じゃねェよ」
城所は吐き捨てるように言った。
「アンタが、俺の娘だって?ふざけンなよ」
「当然のお考えだと思います」淡々と女は答える。その返事の仕方が、また城所の癇に障る。
(可愛げがない女だ)
いきなり娘と名乗る女性が現れて「ハイ、ソウデスカ、感動ノ再会デスネ」などテレビの世界だ。
老人目当ての詐欺になど、引っ掛かってなるものか、と自戒の念を込めて、老人は大いに反省した。
(次の信号で赤になったら、一目散に逃げよう)
そう考えて、車のドアのロックをそっと解除した。
真壁は、その様子を見ながら、話を続ける。
「母の話を続けます。城所さんと結婚したのは、昭和23(1948)年ですよね。その後、昭和25(1950)年に、朝鮮戦争の情報戦のため渡韓しました。その後は、韓国情報部KCIAの設立に関与しています。というのも、母・千鶴は、もともと米国CIAの諜報員だったからです」
頭に血が昇るのを感じた。
「ふざけンじゃねェぞ!」思わず、老人は大声を出してしまった。
妻がスパイで、朝鮮戦争や韓国情報部に大きく関わっていたなど、40年近くたって何故信じられようか。
真偽は全くわからないが、城所老人は怒り心頭であった。
「嘘だ!」
老人は、荒げた息を落ち着かせるように、深く呼吸した。
しかし、まだ気は収まらない。
城所は、真壁を睨みつけた。
車は、練馬から新宿方面に向けて走っているようだった。
「そして母は、1970年に死亡しました。青酸カリによる毒殺です。それを仕組んだのは、その兄である、フランク神津竜一」
真壁が絞り出すような声で言う。
城所は絶句した。
老人は、頭を鈍器で殴られたような印象とは、このことを言うのだと思った。
女房が失踪して、40年以上。息子の信彦と共に生きてきた。
真相は、定かではないが、妻が自分の目の前からいなくなったのは事実だ。
死んでやろうと絶望したことは、一度や二度ではない。
恋い焦がれ、愛し抜いた女性が、アメリカと韓国の諜報員であったなど、にわかに信じられるものではなかった。
「私たちにご協力頂きたく、失礼ながら、城所さんの周囲を調べさせて頂きました」
真壁が、城所の目をじっと見つめた。
「フランク神津竜一…」
城所も、知らない名だった。
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