朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(14/27)

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車は、新宿御苑を過ぎて、外苑西通りに右折した。
車窓を眺めながら、玲子は、昔のことを思い出していた。

母が他界して四半世紀が経つ。
いまの自分の年齢が、母が死んだくらいか。
母はもっと緊張感のある顔をしていた記憶がある。今の自分よりも、もっと、大分痩せていた。
その時の韓国の状況もあったかと思う。

玲子が生まれ育ったのは、韓国・ソウルだ。漢南という韓国でも高級住宅街に住んでいた。
夏暑く、冬は酷寒のソウルが大嫌いだった。

1971年、玲子は、韓国名「イ・スヒョン」として、KCIAに入った。
KCIAは、日本当局の庇護のもと、日本での捜査・情報収集を行ってきた。
日本の公安警察および、陸上自衛隊調査部、内閣情報調査室などは、KCIAとズブズブの関係だった。
それが、対米対策であり、対北朝鮮対策であり、対ソ連政策だったのだ。

玲子もまた、韓国のKCIA捜査官として、日韓を行き渡った。
そこで、取調べという名の元、拷問も行った。
そしてそれは、すべて母からの教えでもあった。

「想像すらできない事態を、ただひたすら考え続ける。戦略的思考とはそういうものだ。常にリスクを考え、それに対して準備し続ける事しか、情報戦は勝ち抜けられない」
母は口癖のように言っていた。

当時の韓国は、実質的に独裁軍事国家だったと言える。
形式的な民政移行が行われた後も、朴正煕は実権を握り続け、1963年から1979年まで大統領を務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた。
日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。
それにより、1970年頃まで経済的に劣位であった、北朝鮮を追い越し、最貧国グループから脱した。

一方で統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。
また対外政策においてもアメリカとの強固な同盟関係を作り出したベトナム戦争において、米軍同様に虐殺や戦争犯罪に関与させる結果となり、ベトナムとの外交関係は悪化した。

朴の独裁政権下では、日本の佐藤栄作・総理大臣と日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化。
その日本との友好姿勢も、国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。
政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中をKCIAにより拉致し国家主権を侵害する「金大中拉致事件」など強硬な政策を進めた。

1979年10月、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭情報長官により、朴正煕は暗殺された。
本人は否定したが、金戴圭の背後にCIAがいたことは、現在では通説となっている。

朴正煕の暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将を始めとした「新軍部」が軍を掌握した。
新軍部の権力奪取の動きに対して、反対運動が各地で発生したが、1980年5月17日に非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。
翌日、光州では、戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は、戒厳軍により武力鎮圧された。
光州事件である。
新軍部は、朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏を8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。

1981年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。
1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による「6.29民主化宣言」を引き出されため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。
しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が、金泳三、金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。

全斗煥、盧泰愚の時代は、軍政に反対する民主化運動とそれに対する弾圧の激しい時代であったが、朴正熙時代から引き続いた高度な経済成長と、ソウルオリンピックの成功、中華人民共和国やソビエト連邦との国交樹立、国際連合への南北同時加盟などにより新興工業経済国として韓国の国際的認知度の上がった時代でもあった。

1986年のソウルオリンピック以降、KICAは急速にその権限が弱体化していく。
1990年、金泳三率いる統一民主党が金鍾泌の率いる新民主共和党とともに盧泰愚政権の与党である民主正義党と合同し、巨大与党である民主自由党が発足した。
金泳三は1992年の大統領選挙に民主自由党の候補として出馬し当選した。金泳三は久しぶりに軍出身者でない文民の大統領であったが、旧軍事政権と協力したために実現したものだった。

そんな時代背景もあり、玲子はKCIAと米軍と陸上自衛隊を、自由に行き来できるようになった。
フリーランスとも言えるし、三重スパイともいえる。
逆に言えば、韓国では居場所を失いつつあったのだ。

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